痛い結婚式になってしまう原因とは!?
◆“儀式”であったはずの結婚式が、痛いイベントになってしまう理由
もとより、二人の門出を祝う気持ちがないわけではない。ただ、大人気ないとは思いつつ、幸せに目がくらんだか、周囲が見えなくなるまでに盛り上がる新郎新婦を目にすると、どうにも気持ちが引いてしまう瞬間があるのである。なぜ、こうした違和感を抱いてしまうのか?
哲学者で津田塾大学国際関係学科准教授の萱野稔人氏は、結婚の変わらぬ意義として、「互いの存在を他とは取り換えの利かないものにし、その取り換え不可能性のもとで互いの生存を支え合う共同体的なシステム」としつつ、“痛い結婚式”が生まれてしまう背景を、「結婚が恋愛というの原理にのみ込まれてしまったために、結婚式がある種、熾烈な競争のゴールに位置付けられているからでは」と分析する。
「結婚と恋愛ってもともとは別のもの。結婚とは本来、女性を移動させることで『家』という生存のための最小単位の共同体を再生産していくシステムでした。しかし、本体は別のものである恋愛と結婚が結びつくことで、結婚という安住の居場所を手にいれるためには、恋愛という競争に勝たなくてはならないという逆説的な状況が生まれた。当然、女性の移動をまわりに承認してもらう儀式だった結婚式も、その性格を変えていったわけです」
つまりは、結婚は、過酷な“恋愛自由市場”でしのぎを削り、勝利を手にした者が手にする栄冠。そうなると、さしずめ結婚式は、“優勝祝賀会”。そう思えば、新郎新婦が浮かれたくなるもの当然だ。熱心がファンならまだしも、我ら、ギャラリーは、勝利を喜びはするけれど、はしゃぎすぎた“優勝祝賀会”にはついていけない。ご祝儀出してまで参加しなくても……と思ってしまうのも納得なわけである。
「加えるなら、恋愛は個人主義、結婚は共同体主義。結婚に恋愛の要素が強くなれば、個人主義化していきます。その結果、結婚式も家や親のためではなく、“自分たちらしさ”の場になるのも、必然なのかもしれません。そこであまり浮かれてしまうと、痛い結婚式になってしまうんでしょうね」
【萱野稔人氏】
’70年、愛知県生まれ。哲学者。フリリーター経験の後、パリ第10大学大学院へ留学。現在、津田塾大学国際関係学科准教授。著作に『国家とはなにか』『「生きづらさ」について―貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』(共著)
取材・文/笠原ネコ、藤村はるな、港乃ヨーコ、鈴木靖子(本誌)
取材/吉田峰子
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