むずかしい日本語のボキャブラリーを持たないマサ斎藤――フミ斎藤のプロレス読本#156[新日本プロレス199X編01]
―[フミ斎藤のプロレス読本]―
199X年
マサ斎藤は、GUESSゲスのジーンズに白のヘンリーネックのシャツ、爬虫類系のカウボーイブーツをはいて代官山のメインストリートをてくてく歩いていた。
旧山手通りのヒルサイドテラスにお気に入りのサンドウィッチ屋さんがあるのだという。ここ1、2年のあいだにマサさんはこのあたりのエリア・マップにめっぽうくわしくなった。
もちろん、ヒゲもじゃのマサさんが『Hanako』誌の特集号かなにかを手にお洒落なショップをみて歩く、なんてことするはずがない。だいたい、電車の乗り方だってろくに知らない人である。
代官山をほっつき歩くようになったのは、ワイフのミチコさんの影響なのだろう。マサさんは彼女を“ミチ”、ミチコさんはハズバンドを“マサ!”と呼ぶ。ちゃんと結婚したのだから、おたがいをファーストネームで呼び合うのがいちばん自然だ。
マサさんは、26歳のときにアメリカに渡った。ロサンゼルス、サンフランシスコ、カナダのバンクーバー、フロリダ、ニューヨーク、ミネアポリス。いろいろな土地で暮らした。
20代の後半から40代のまんなかあたりまでをアメリカで過ごしたせいか、フォーマルな日本語の用法にはちょっとたどたどしいところがある。
イングリッシュでは知っていても、それと同じ意味のジャパニーズの単語がわからないということがよくある。
いちばん長く住んだ街はサンフランシスコとタンパとミネアポリスだった。サンクランシスコに住んでいたころは、サイドビジネスとしてアパートメントやゲームセンターの経営をしていたこともある。
タンパ時代は夜ごとどんちゃん騒ぎの生活をおくっていた。ポリスマンとの乱闘事件に巻き込まれ、ウィスコンシンの刑務所に18カ月間、お世話になったこともあった。そのあいだに2度、結婚した。
グリーンカード(永住権)を取得していたから、ずっとアメリカにいるのもそれはそれでよかったのかもしれないけれど、マサさんは1980年代の終わりになんとなく日本に帰ってきた。トーキョーにいるご両親は、やっぱり長男の帰国を喜んだ。
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