失明、骨折の凄惨決着…アントニオ猪木「壮絶すぎたガチンコ試合」の舞台裏
数々の伝説を残してきた「燃える闘魂」アントニオ猪木。多くの観客を魅了した日本プロレス界不世出のスーパースターには、とびきり異彩を放つ一戦があった。
1976年12月12日、パキスタンで行われたアクラム・ペールワンとの試合は「喧嘩マッチ」として今なお語り継がれている。プロレス考察家のジャスト日本氏が「壮絶すぎたガチンコ試合」の舞台裏を振り返る。(本記事はジャスト日本著『プロレス喧嘩マッチ伝説~あの不穏試合はなぜ生まれたのか?』より抜粋したものです)
数多くのレスラーを指導してきた「関節技の鬼」藤原喜明はかつてアントニオ猪木のスパーリングパートナーを務めており、用心棒として猪木の海外遠征にも同行していた。そんな彼にとって忘れられない試合が、1976年12月のパキスタン遠征時に行われたアントニオ猪木vs アクラム・ペールワン。この試合の映像を彼は未だに怖くて観れないという。
1976年は猪木にとってウィレム・ルスカ、モハメド・アリといった世界の格闘家と異種格闘技戦を行った分岐点となる1年だった。その年の最後に組まれた大一番がパキスタンでのアクラム・ペールワン戦だった。
ペールワンはパキスタンで有名な「ボル・ブラザーズ」の五男で、パキスタンのプロレス界を牽引する英雄である。ルー・テーズに勝ったとか、〝当時のプロレス界最強シューター〟ジョージ・ゴーディエンコと対戦したなど諸説がある。
この試合は元々プロレスでやることになっていたが、当日の試合前にペールワン側から「シュートでやりたい!」と要求があり、交渉を続けても頑なに変えないため、シュートマッチで行うことになったという極めて稀な試合である。
5分6ラウンド3本勝負という変則ルールでゴングが鳴った。1ラウンド、猪木はダブル・リストロック(チキンウイング・アームロック)から腕ひしぎ十字固めに移行していく。だがペールワンは上体を起こして逃れる。実はペールワンはこの日、オイルを全身に塗りたくってリングに上がっていた。ヌルヌル状態の相手に技を仕掛けてもなかなか成功しにくい。
2ラウンドになっても猪木の攻勢は変わらない。ペールワンからバックマウントを取ると背後から前腕での顔面グリグリ攻撃。これはカール・ゴッチ直伝の裏技か。さらにフェースロックにいく流れで、右の人差し指と中指でペールワンの右目を突いたのだ。意図的か偶然かは不明。するとペールワンはなんと猪木の腕に噛みついて逃れようとする。
藤原喜明「未だに怖くて観れない」
直前に「シュートマッチ」に変更
プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にて「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログやnoteなどで情報発信を続ける。著書に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』『インディペンデント・ブルース』(Twitterアカウント:@jumpwith44)
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『プロレス喧嘩マッチ伝説~あの不穏試合はなぜ生まれたのか?~』 プロレス史に残る65の喧嘩マッチを考察、その衝撃の舞台裏に迫る! |
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