ブラック・タイガーの「オレの親父はレベル=反逆者だったんだぜ」――フミ斎藤のプロレス読本#158[新日本プロレス199X編03]
―[フミ斎藤のプロレス読本]―
199X年
ブラック・タイガー(エディ・ゲレロ)はあまり背が高くない。マスクをとって街を歩いていてもおよそプロレスラーという感じはしないし、ふつうのアメリカ人のなかにまぎれ込んだらむしろちいさいほうに入ってしまう。
だから、子どものころから知らない人とおしゃべりするときは胸をはってちょっとだけ背伸びをしてアイ・コンタクトする癖がついている。
エディの父親のゴリー・ゲレロは高名なルチャドールだった。メキシコの国民的英雄エル・サントのマスクをひきちぎって額から大流血させたこともあるし、“鉄人”レイ・メンドーサからチャンピオンベルトを奪いとったこともある大ルード(ヒール)。
フィニッシュ・ホールドとして愛用していたオリジナルの背面式バックブリーカーには“ゴリー・スペシャル”という名がつけられていた。現在でもメキシコにはこの技の使い手が多い。
父ゴリーのルードとしてのキャラクターは、一家のエスニック・バックグラウンドと深く関係していた。メキシコ系アメリカン、つまりアメリカ国籍のメキシカンは“チカノ”と総称される。
アメリカではマイノリティー(少数派)だし、メキシコへ行けばなんとなく疎まれる存在になってしまう。だから、ゴリーはみずからすすんで“レベルRebel(反逆者)”を演じた。
テキサス州エルパソ生まれのエディは、家のなかではスパニッシュを話し、外ではイングリッシュをしゃべりながら育った。エディにとってはどちらもネイティブ・ランゲージだし、隠さなければならないようななまりもない。
エルパソではだいたいの人たちがふたつの言語をあやつっている。スパニッシュが話せなかったらルーツを失ってしまう。
3人の兄たち、チャボとマンドーとヘクターはいずれも10代でプロレスラーになった。父ゴリーは、息子たちにルチャリブレとアメリカン・スタイルのふたつのレスリングを教えた。
チカノにはチカノのレスリングがある。しっかりとした技術を身につけていれば、アメリカでもメキシコでも自信をもって生きていける。
チャボは、父ゴリーにひけをとらないレベルだった。新日本プロレスのリングで手に入れたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座のチャンピオンベルトをそのまま全日本プロレスのリングに持ち込んで物議をかもしたことがあったし、1970年代後半には不況だったロサンゼルス・マットをたったひとりでヒスパニック・カラーに染め変えてしまった。
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