カール・ゴッチ “プロレスの神様”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第4話>
初来日は1961年(昭和36年)5月。ゴッチはカール・クラウザーのリングネームでマスクマンのミスターⅩ(ビル・ミラー)、グレート・アントニオ、グレート東郷といったメンバーとともに日本プロレスの『第3回ワールド大リーグ戦』に参加。
このとき、日本のプロレスファンはジャーマン・スープレックス・ホールドという技を初めて目撃することになる。
昭和30年代の日本のマスコミはこの技を“原爆攻め”“原爆固め”と呼称したが、のちにカタカナ表記にジャーマンが用いられたのは、ゴッチがドイツ人(じっさいはベルギー人)だというきわめて単純な理由からだった。
1962年8月31日、オハイオ州コロンバスのジェット・スタジアムという試合会場のドレッシングルームでプロレス史に残る“なぞの乱闘事件”を起こした。
登場人物はゴッチ、ビル・ミラー、バディ・ロジャースの3人。ゴッチがNWA世界ヘビー級王者ロジャースにケンカを売り、ロジャースがこれを無視しての部屋のドアに手をかけると、“門番”のミラーがそのドアを勢いよく閉めたため、ドアに腕をはさまれたロジャースが右手首を骨折したというのがこのストーリーのあらすじといわれている。
ロジャースはこの日、じっさいに試合を欠場し、ロジャースの代打として当時、アメリカ武者修行中だったジャイアント馬場がメインイベントに出場してジョニー・バレンドと試合をおこなったという記録が残されている。
ロジャースはコロンバス市内のユニバーシティー病院で治療を受けたあと、警察に通報。ゴッチとミラーは傷害罪の疑いで取り調べを受けた。
プロモーターのA・ハフトは、ロジャースが試合に出場できなかったためチケットの払い戻しをおこなったとされる。しかし、ロジャースはその後、刑事告訴を取り下げ、事件はひとまず解決。ゴッチとロジャースのあいだでいったいなにがあったのかは永遠のミステリーとなった。
ゴッチは事件から2週間後、コロンバスでドン・レオ・ジョナサンを下し、オハイオAWA世界ヘビー級王座を獲得(1962年9月11日)。
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