更新日:2017年11月12日 10:48
スポーツ

“関節技の鬼”藤原喜明「プロレスはセックスみたいなもの。裸のつき合いは深い」――最強レスラー数珠つなぎvol.15

「藤原敏男先生の紹介じゃなきゃ、こんな取材、受けねーよ」  藤原喜明は開口一番、そう言い放った。背筋が凍った。どうしよう。どエラいところへ来てしまった。逃げ出したい気持ちをグッと堪え、取材を進める。子供の頃の話、プロレスとの出会い、カール・ゴッチとの思い出、飼っていた犬の話、趣味の陶芸の話――。分刻みに、藤原の表情が和らいでいった。ああ、なんて素直で分かりやすい人なんだろう。  「ちょっと待ってて」と言って席を外し、しばらくすると大量のスクラップブックを抱えて戻ってきた。トレーニングの記録、新聞の切り抜き、白黒写真の数々。「俺も写真、撮ったんだよ」と、アルバムを広げる。女性のヘアヌードだ。めくると、なぜか藤原も一緒に全裸で写っている。「このネエちゃん、ムスッとしてっからさ。俺も脱いだわけよ。一人でスッポンポンじゃ、嫌だろうから。そしたらほら、ニッコリしてるだろ?」。この豪快さと無邪気さを前に、ニッコリしない人間がいるだろうか。  関節技の鬼――。その異名とはまた別の、藤原喜明の素顔はとても温かかった。 【vol.15 藤原喜明】 “関節技の鬼”藤原喜明の素顔――ご出身は、岩手県の農家なんですね。 藤原喜明(以下、藤原):農家の長男ですよ。親父はとび職だったんだけど、酒乱でね。ぶん殴られてばっかりいた。いつかこの親父を殴ってやろうと思って、相撲ばっかり取ってたよ。無口だったけど、喧嘩はふっかけられればしたかな。小学校6年くらいのとき、中学生が5、6人でやってきて、「お前、生意気だ」って学校の近くの墓に引っ張られてさ。先生が真っ青になって「やめろー!」って止めにきたりしてな。でも、怖いと思ったことはなかったよ。根拠のない自信というかね。 ――中学は相撲ではなく、剣道部。 藤原:柔道部に入ろうと思ってたんだよ。道場に「道」って書いてあったから、ここだと思って入ったら、柔道じゃなくて剣道だった。まあ、同じ「道」だからいいか、どうでもいいやって(笑)。アホだよなあ、昔から。中学校1年のときに、体が大きいから狙われてたのかね。上級生に屋上まで引っ張り出されてさ。果たし合いみたいな。投げられて、肩固めされて、逃げようと思っても逃げられなかった。痛くて動けないんだけど、「いまのは一体、なんなんだ!?」と思ったんだよ。 ――それが関節技との出会いですか? 藤原:そうそう。工業高校の機械科だったから、応用力学が好きでね。応用力学と機械工作と体育は5だったんだよ。関節技は力学だからね。力学というのは、つまりテコだ。これは面白いぞと。 ――力学が好きだったから、関節技が好きになった? 藤原:いや、そうじゃないんだ。子供の頃、俺らのルールで「参った相撲」っていうのがあったんだよ。講堂の板の間で組んずほぐれつやって、どちらかが参ったって言うまでやる。同級生で二人大きい奴がいたんだけど、その内の一人と毎日のようにやってた。いま思うと、寝技だな。そういうのが好きだったんだろうね。 “関節技の鬼”藤原喜明の素顔――プロレスラーになりたいと思ったのはいつ頃ですか。 藤原:小学校5、6年の頃、学校で映画鑑賞会があったんだよ。フィルムとフィルムを取り替える時間なのかな、10分くらいニュース映画っていうのが流れて。そこで力道山先生が映ったんだ。衝撃だったよ。「なんなんだ、これは!? こんなものが世の中にはあるのか!」って思って。これしかない、みたいなね。それが始まりだと思うよ。 ――高校を卒業して、上京したのはなぜですか。 藤原:百姓になりたくなかったんだよ。長男だから普通は農業をやらなきゃいけないんだけど、親父には毎日ぶん殴られてたしな。親父もお袋も、一日中、一生懸命働いてても貧乏だったしね。「オラ東京さ行くだ」ってやつだよ。でもストレートに東京に出る自信がなかったから、埼玉に就職したんだ。川越の小松インターナショナルっていう会社。従業員が1000人くらいいた。まあまあ、大きいよね。  そこで、ウエイトトレーニング部を設立したんだよ。47人だったかな。お金を集めてさ。すごいだろ? 18歳だよ? 吃音なのにさ。総務部に行って部長と話してさ、そしてベンチとか腹筋台とか買ったんだけど、当時の通信販売って注文してから配達まで2ヶ月くらいかかるの。みんなから、「金どうした!」「騙された!」とか言われてさ(笑)。大変だったんだよ。 ――20歳のとき、会社を辞めてコックさんになった。 藤原:みんなチンタラチンタラ働いててね。残業したりさ。んなこた、やってられねーやと思って辞めたんだよ。とは言え、飯食わなきゃいけない。タダで食える方法はないだろうか? コックだ! っていう。バカだろ(笑)? けど、コックになったら、営業時間が8、9時間でしょ。それに掃除だとか仕込みだとか入れたら、勤務時間が13、14時間なんだよ。今度は魚を覚えようと、横浜の中央卸売市場に辿り着いた。市場から近いスカイジムっていう、ボディービルのジムに入ったんだよ。 ――プロレスラーになるためですか? 藤原:そうそう。トレーニングしてたら、元プロレスラーで、ジムの会長の金子武雄さんに「プロレスやんねーか」って言われてさ。一週間、時間もらって、お願いしますっていうことで、プロレスラーを目指すことになったわけだ。半年くらい経って、「新日本プロレスと、全日本プロレスと、国際プロレス。どこに行くんだ?」って聞かれたんだけど、俺は新日本プロレスを選んだんだよ。新日本だったらチャンスがあるかもしれないと思って。けど、「国際プロレスもいいぞ」って言われてさ。きっと国際プロレスに入れたかったんだろうな。社長の吉原(功)さんと仲が良かったから。 ――新日本プロレスにチャンスがあると思ったのは、新しい団体だったから? 藤原:そうだね。それに、小さい奴ばっかりだったんだよ。俺が新日本プロレスに入ったときは、猪木さんの次だったんだ。猪木さんが189cmで、俺が185cmあったから。1972年11月2日に、金子さんに連れられて六本木に行ったら、猪木さんがいてね。当時、猪木さん29歳だったんだね。そりゃもう、カッコよかったよ。 “関節技の鬼”藤原喜明の素顔――入門してから10日でデビューされました。すごい才能ですね。 藤原:いやいや、才能というか、金子先生のところで寝技ばっかりやってたから。それに人数が少なかったしね。第3試合で、相手は藤波辰巳。その試合を豊登(道春)さんが見てて、「お前、初めてじゃないだろ? 国際プロレスかどこかにいただろ?」って聞かれて、「初めてです」って言ったら信じてもらえなかった(笑)。
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デビュー後は前座の時代が続く…
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尾崎ムギ子/ライター、編集者。リクルート、編集プロダクションを経て、フリー。2015年1月、“飯伏幸太vsヨシヒコ戦”の動画をきっかけにプロレスにのめり込む。初代タイガーマスクこと佐山サトルを応援する「佐山女子会(@sayama_joshi)」発起人。Twitter:@ozaki_mugiko

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没後10年「ゴッチの愛弟子、師を語る」


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