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バディ・ロジャース 本格派ヒールのチャンピオン像――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第5話>

 宿命のライバルはだれだったのかといえば、やはり“鉄人”ルー・テーズということになるのだろう。ロジャースとテーズは、第二次世界大戦中の1940年代から1960年代前半までの約20年間、つねにヒット・アンド・アウェーの関係にあった。  少年時代からYMCAでレスリングを学んだロジャースは1939年、18歳でプロレスラーとしてデビューした。  20歳のときにフィラデルフィアで元世界ヘビー級王者エド“ストラングラー”ルイス(当時51歳)と闘ったことがあるという。ルイスは、いうまでもなくのちのテーズのロード・マネジャーである。  ゴージャス・ジョージがテレビ時代が生んだハリウッドのヒット商品だとしたら、ロジャースはいわゆるライブ・パフォーマーだった。  テーズとの最初の遭遇は1945年、ロジャースがテキサス州ヒューストン(モリス・シーゲルMorris Sigel派)をサーキット中のことだ。戦時中、ヒューストン陸軍基地に駐屯していたテーズは、週末だけプロレス活動をつづけていた。  テーズは29歳の前世界チャンピオンで、ロジャースは24歳の若手レスラー。ロジャースはテーズに対してどうにもならないコンプレックスを抱いていたという。テーズとの出逢いがなければ、ロジャースが本格的なヒール道を模索することはなかったかもしれない。  ロジャースとテーズの2度めの接触は、それから3年後の1948年。ミズーリ州セントルイスがレスリング・シーンがテーズ派(トム・パックスTom Packsから興行権買収)とサム・マソニックSam Muchnick派の2団体に分裂していた時代だった。  マソニック派はロジャースをセントルイスにブッキングし、テーズ派の興行にぶつけた。この年、マソニックが発起人となりNWAが発足し、翌1949年にはテーズ派とマソニック派が合併。この時点で、ロジャースはロジャースでスーパースターへの階段をのぼりはじめていた。  1949年から1957年までの8年間(途中、1956年3月に“ホイッパー”ビリー・ワトソンに敗れるが、同年11月に王座奪回)、テーズはNWA世界ヘビー級王者として全盛期を迎える。
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ロジャースがNWA世界王座を手に入れるのは1961年
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