更新日:2022年11月29日 11:59
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バディ・ロジャース 本格派ヒールのチャンピオン像――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第5話>

 いっぽう、ロジャースはロサンゼルス版・世界王座(1948年=ジャック・フェファー派)、ボストンAWA世界王座(1952年=ポール・バウザーPaul Bowser派)、オハイオAWA世界王座(1952年=アル・ハフトAl Haft派)、シカゴAWA世界王座(1952年=レイ・ファビアーニRay Fabiani派)と“テーズ系譜”とはリンクしない流派の世界ヘビー級王座を獲得しつづけた。  ロジャースがようやく“保守本流”のNWA世界王座を手に入れるのは1961年。ロジャースがチャンピオンになったことで世界タイトルマッチの運営権はシカゴの大物プロモーター、フレッド・コーラーFred Kohlerの手に移り、ニューヨークのビンス・マクマホンVince McMahon(現在のビンスの父)がロジャースのパーソナル・マネジャーとなった。  セントルイス=マソニック派は、なにがなんでもシカゴ―ニューヨークの大都市ラインからチャンピオンベルトをとり返すべく作戦を練った。  NWA創設者マソニックは、この時点ですでにセミリタイアしてアリゾナで牧場を営んでいた46歳のテーズを“刺客”として担ぎ出した。  ロジャース対テーズのNWA世界ヘビー級選手権が実現したのは1963年1月24日。場所は“中立エリア”のカナダ・トロントだった。  リング上で組み合った瞬間、テーズがロジャースに「Easy way, or hard way?(かんたんな方法でいくか、それとも痛い方法でいくか?)」とささやいた、とされるワンシーンはプロレス現代史の“伝説”としていまも語り継がれている。  通常の3本勝負ではなく1本勝負でおこなわれたタイトルマッチは、テーズが順当なフォール勝ちを収め、NWA世界王座を奪回。  “世界最高峰”とされるチャンピオンベルトは再びセントルイス派閥の管理下に置かれることとなった。  マクマホン一派はこの王座移動の無効を主張し、それから3カ月後にニューヨークに新団体WWWF(World Wide Wrestling Federation=現在のWWE)が誕生する。  ところが、初代WWWF世界ヘビー級王者ロジャースは、マディソン・スクウェア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノに“48秒”で敗れ王座から転落(1963年5月17日)。ロジャースは“心臓病”を理由にリングから姿を消した。  突然の引退から15年後、ロジャースはNWAクロケット・プロで現役復帰。ここで売り出し中の若手ヒール、フレアーと遭遇する。  29歳のフレアーと57歳のロジャースの対決はフレアーが勝利(1978年7月9日=ノースカロライナ州グリーンズボロ)。フレアーは名実ともに“ネイチャー・ボーイ”の称号を手に入れた。  1980年代前半には古巣WWEに復帰。ベビーフェースに転向したばかりの“スーパーフライ”ジミー・スヌーカのマネジャーをつとめ、TVショーでは“ロジャース・コーナー”というトーク・ショー・セグメントを担当した。  ビンス・マクマホン“ジュニア”は少年時代からロジャースの大ファンだったのだという。 ●PROFILE:“ネイチャー・ボーイ”バディ・ロジャース“Nature Boy”Buddy Rogers 1921年2月20日、ニュージャージー州キャムデン出身。出生名はハーマン・ロードだったが、のちに本名をバディ・ロジャースに改名。NWA世界王座を1年7カ月間保持したあとテーズに敗れるが、1963年4月に初代WWWF世界王者に認定された。現役時代、ついにいちども来日せず“まだ見ぬ強豪”のまま引退した数少ないスーパースターのひとり。1992年6月26日、脳こうそくで死去。享年71。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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