更新日:2022年12月10日 18:55
スポーツ

ヒロ・マツダ 日本人フリーエージェント“第1号”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第24話>

 マツダ―ゴッチ―猪木の3人を結ぶ“点”と“線”は、ジャーマン・スープレックス・ホールドだった。  マツダは、アメリカ武者修行時代のアントニオ猪木とタッグチームを結成し、エディ・グラハム&サム・スティムボートを下してテネシー地区認定NWA世界タッグ王座を獲得(1966年1月24日=テネシー州メンフィス)。  猪木は、アメリカから帰国後の1966年(昭和41年)4月、豊登とともに新団体・東京プロレスを設立。いっぽう、マツダも同年10月、日本プロレスを退団した吉原功と新団体・国際プロレス設立を発表。  アメリカでのタッグチームとしての活動から1年後、1967年(昭和42年)1月、マツダと猪木は国際プロレス&東京プロレス合同興行シリーズでコンビを復活させ、日本のリングでも同王座防衛戦をおこなった。  マツダと猪木の因縁は深く、新日本プロレスが開催した『プレ日本選手権』決勝戦で猪木対マツダのシングルマッチが実現したこともあった(1978年=昭和53年12月16日、東京・蔵前国技館)。  マツダは名コーチとしても知られ、ハルク・ホーガン、テッド・デビアス、ボブ・オートン、ポール・オーンドーフ、レックス・ルーガー、ロン・シモンズらヘビー級の大型ルーキーだけを専門にレスリングを教えた。  マツダ自身も引退宣言はせず、NWAフロリダの役員の仕事をしながら1980年代後半までのんびりと現役生活をつづけた。 ●PROFILE:ヒロ・マツダHiro Matsuda 1937年7月22日、神奈川県出身。本名・小島泰弘。NWA世界ジュニアヘビー級王座通算2回保持。1966年(昭和41年)、日本プロレスに一時帰国するが、同年10月、吉原功とともに国際プロレスを設立。その後、フリーの立場で日本プロレス、全日本プロレス、新日本プロレスのリングにも上がった。アメリカでグリーンカードを取得し、NWAフロリダの役員として日本とのパイプ役をつとめた。1999年11月26日、結腸ガンで死去。享年62。 マツダとアメリカ武者修行時代の猪木のコンビは、エディ・グラハム&サム・スティムボートを下しテネシー地区認定NWA世界タッグ王座を獲得(66年1月24日=テネシー州メンフィス)。1年後、67年1月の国際&東京プロレス合同興行シリーズでコンビを復活させ同王座防衛戦をおこなった。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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