ビンス・マクマホン 世界征服と開拓のパラドックス――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第100話(最終話)>
ビンスは古い世代のプロモーターができないこと、やろうとしないことにあえてチャレンジしていった。
興行テリトリーの拡大=全米進出もそうだったし、地上波ネットワーク局とケーブルTVを使ったプロレス番組の全米放映もそうだった。
アメリカじゅうのローカル団体からメインイベンター・クラスを根こそぎ引き抜いて契約選手200人超の大所帯をつくり上げ、1980年代後半には年間980公演(3グループ制)の興行日程を組んだ。
視聴者が1番組ごとに受信料を支払うPPV(ペイ・パー・ビュー=契約式有料放映システム)をプロレスに導入し、レスリング・ビジネスの市場経済を根底から変えた。
失敗もいくつかあった。アイコ・プロというビタミン・サプリメントの会社を立ち上げてつぶしたこともあったし、周囲の反対を押し切ってプロ・ボディービル団体WBF(ワールド・ボディービルディング・フェデレーション)を立ち上げ、その大きな赤字がWWEの経営を圧迫したこともあった。
NBCとの共同出資で設立したプロ・フットボール新リーグXFLは、累計7000万ドルの損失を出してわずか1シーズンで幕を下ろした(2001年)。
もうひとつのWWF(Worldwide Fund For Nature=世界自然保護基金)との裁判の結果、団体名をWWFからWWEに改称した(2002年5月)。
1990年代前半までに全米各地のNWA加盟テリトリー、AWA、ダラスWCCWといった競合団体はことごとく倒産。
1990年代後半に“月曜TV戦争”でプライムタイム番組の視聴率を争ったライバル団体WCWは、親会社AOLタイムワーナー社による予算削減で活動休止となり、WWEが430万ドル(推定)でWCWのロゴとその映像アーカイブの買収(2001年3月)。ビンスの“世界征服計画”はついに現実のものとなった。
ビンスの最大の功罪は、プロレスをはっきりとスポーツ・エンターテインメントと定義したことだろう。
プロレスを純粋な競技スポーツではないサムシング、「スポーツとエンターテインメントのちょうど中間に位置するアメリカーナ(アメリカ文化、アメリカ的ななにか)である」と公言したプロモーターは、それまでの約150年のアメリカのプロレス史のなかでビンスだけだった。
“スポーツ・エンターテインメント宣言”はプロレスそのものをスポーツの呪縛から解放し、結果的に“やる側”と“観る側”のどちらにも自由な発想を与えた。
ビンスがプロレスというジャンルをクリエイトしたのかといえばもちろんそうではない。ビンスやビンスの父ビンス・マクマホン・シニア、祖父ジェス・マクマホンの時代よりもはるか昔からプロレスは存在した。
“プロレスの父”ウィリアム・マルドゥーンWilliam Muldoonがいた。20世紀の最初の統一世界ヘビー級王者フランク・ゴッチFrank Gotchの時代があった。プロレスをプロレス化したのはエド“ストラングラー”ルイスEd “Strangler” Lewisだった。
ビンス・シニアがニューヨークにWWWF(Worldwode Wrestling Federation)を設立する15年もまえに“巨大カルテル”NWAが誕生した(1948年7月)。
ビンス・シニアの1960年代、1970年代があったからこそ、ビンスの1980年代、1990年代があった。
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