ビンス・マクマホン 世界征服と開拓のパラドックス――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第100話(最終話)>
ビンスは「父が生きていたら許してくれないことがふたつある」と語る。
ひとつはビンス自身が“プロレスラー自我”ミスター・マクマホンとしてリングに上がってしまったこと。もうひとつは、長男シェーン・マクマホンと長女ステファニー・マクマホンをタレントに変身させたことだという。
WWEはプロレス団体としては初めて株式を公開し、1999年10月にニューヨークのナスダック市場に上場。翌2000年10月にはニューヨーク株式市場に上場した。
ビンス会長、リンダ社長CEO(当時)、シェーン副社長、ステファニー副社長が約80パーセントのシェアを保有しているため、市場で取り引きされている株は20パーセント程度とされる。
世界征服に成功してみたら、いろいろな新しい現実が浮かび上がってきた。
あれだけ広いアメリカにレスリング・カンパニーは事実上、WWEだけになった。資本主義のルールどおりに自由競争をつづけ、全米各地のプロレス団体との闘いに勝ち抜き、マーケット全体を手に入れたら、まるで――アメリカ人が嫌いな――社会主義・共産主義のようなモノポリー経済が誕生した。
市場を独占してしまうと、こんどはプロレスが呼吸困難に陥った。ひじょうにアメリカ的な“征服”と“開拓”のパラドックだった。
ビンスはWWEをロウ・ブランド、スマックダウン・ブランドの2リーグ制にシフトチェンジし、所属選手もテレビ番組もふたつのグループに分解した。
しかし、1団体2リーグ制はあくまでも現在進行形のWWEのひとつの方法論であって、20年後、30年後のプロレス市場を想定したものではない。
ビンスはマイナーリーグ構想に打ちだし、OVW(オハイオ・バレー・レスリング=ケンタッキー州ルイビル)、FCW(フロリダ・チャンピオンシップ・レスリング=フロリダ州タンパ)といったファーム団体を設立し、新人レスラー育成に着手したことがあった。
新人育成プランは、その後、トリプルHがエグゼクティブ・プロデューサーとしてフロリダ州オーランドに“WWEパフォーマンス・センター”を開校したことで具体化し、長期プロジェクトとなった(2013年7月)。
2014年2月にはインターネット上の動画配信サービスとして“WWEネットワーク”が開局。現在進行形のWWEの映像だけでなく、WWWF・WWF時代、NWA/WCW、AWA、WCCW、ECWなど他団体の試合映像もアーカイブとして“格納”された。
73歳になったビンスは、それでも毎週月曜、コネティカットから自家用機に乗ってTVショー“マンデーナイト・ロウ”の収録現場にやって来る。
シェーンやステファニーがシニア・エグゼクティブとして責任のある立場となっても、ステファニーの夫トリプルHがCOO(最高執行責任者)として手腕を発揮するようになっても、ビンスはライフワークとして“月曜RAW”の番組プロデューサーでありつづけるのだ。
●PROFILE:ビンス・マクマホンVince McMahon
1945年8月24日、ノースカロライナ州パインハースト生まれ。本名ビンセント・ケネディ・マクマホン。1970年代はWWEのテレビ番組の実況アナウンサー、インタビュアー、リング・アナウンサーとして活躍。1982年、新会社タイタン・スポーツ社設立。1984年、全米マーケット進出。ミスター・マクマホンのリングネームでプロレスラーとして試合もおこなうこともある。
※文中敬称略
文/斎藤文彦
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