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エアポート投稿おじさんに、雲の上から微笑みかける今別府直之――patoの「おっさんは二度死ぬ」<第3話>

初めてのスマホに悪戦苦闘するおっさん

打ち込んでみると、なるほど、おっさんはかなり練習したんだなと理解できた。「空港」の「くう」を入力しただけで、おっさんが過去に入力した「くう」で始まる文字が履歴として変換候補に表示されたのだ。ちょっと詳しくは分からないが、文字入力が楽になるアプリも奥さんが入れてくれたのかもしれない。 「くうご 食う 食うこっ!」履歴を見るだけで悪戦苦闘の様子が窺える。最後など、なにをどう悪戦苦闘したらビックリマークまで入るのか興味深いくらいだ。 「いまから鹿児島に向かいます、と打ってください」 今空港にいて飛行機に乗るということはプロカメラマンが撮影したと見紛うレベルの画像からわかるので、あえてメッセージとして送る必要はないが、それでも言われたとおりに打ち込む。「いま」と打ち込もうとしたところ、とんでもないものが変換候補に現れた。 「今別府直之」 誰? おっさんの本名かな? とも思ったが、先ほど見た奥さんの登録名から考えてそれはありえない。 誰なんだ、誰なんだ、無性に気になった。調べてみたら、吉本の芸人さんだった。1972年生まれ、兵庫県尼崎市出身、趣味は阪神タイガース、読書、ギャグ、テレビ鑑賞である。くわしくは吉本興業のタレント名鑑を参照されたい。 ※今別府直之(吉本興業HP) “なぜ今別府直之が?” なんとか言われたとおりに入力し、スマホを返却したが、考えるのはそのことばかりだった。 むちゃくちゃファンなのだろうか、それとも知人や親戚など繋がりのある人なのだろうか。 そういえばおっさん、さっきスマホで調べた今別府直之の顔にちょっと似ている。今別府直之のことばかり気になってきた。ぐるぐると今別府直之が頭の中を駆け巡る。脳の大部分を今別府直之に支配されることになった。くそっ、なんなんだ今別府直之! そしていよいよ離陸の時間となる。 ネットから断絶される時間がやってきた。最近では機内Wi-Fiなどが隆盛で、フライト中もネットサーフィンを楽しめたりするが、いまだこの格安航空ではそういったサービスがない。電波を発する機器は電源を切るか機内モードにしなくてはならないし、そもそも上空では電波が入らない。これから鹿児島までの2時間あまり、ネットから隔絶される時間がやってくるのだ。 「もしかして、これ連絡もらえなくなります?」 おっさんは不安そうな表情をみせた。たぶん、奥さんかもしくはお義母さんから出産に関して連絡が来なくなることを心配しているのだと思う。 「ええ、機内モードにしておいたほうがいいですよ」 と言いつつも、たぶん分からないだろうから、設定してあげた。おっさんは口に出さないまでもかなり動揺している様子だった。 ついに飛行機は大空へと旅立った。天候があまり良くなかったためか、まあまあ揺れた。ふと横を見ると、おっさんは気の毒になるくらい青い顔をして震えていた。 「大丈夫ですよ、これくらいの揺れでは落ちませんよ」 あまりにこの世の終わりみたいな感じなので安心させるためにそう話しかける。 「いえ、そうじゃないんです」 おっさんは首を横に振った。 「飛行機が怖いんじゃないんです。ただ、妻と子供のことが心配で心配で」 とのことだった。よほど出産が心配らしい。連絡が取れなくなったことでその不安がマックスに振り切れてしまった。そりゃそうか。
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空の上から“その人”は優しく微笑んだ
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