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世界でいちばん、「佐藤さん」が密集する場所――patoの「おっさんは二度死ぬ」<第15話>

アレクサンダーはこうして生まれたのだった

 僕の表情から何かを感じ取ったのか、アレクサンダーは作業の手を止めた。そしてゆっくりと、まるで何かを覚悟するかのように語り始めた。 「仕事の原動力は何かって問題なのよね」  アレクサンダーは急に柔らかい口調になってそう切り出した。  人々は働く理由として様々な原動力がある。例えばお金のためだったり、家族のためだったり、夢のためだったり、やりがいのためだったり、彼はそういった原動力について語り始めた。 「俺はエロなのよ。情けないけど、エロなのよ。恥ずかしながらエロなのよ」  アレクサンダーは言葉とは裏腹に、全く恥じることなく堂々とそう言った。 「エロい店に行きたい。エロいもの見たい。そのために一生懸命この店をやってるわけ」  ただ、アレクサンダーと呼ばれている理由が知りたかっただけなのに、生きるとは何か、仕事とは何か、みたいな重厚なテーマでの演説を聞かされることになった。いかにしてエロがアレクサンダーの日々を支えているのか知るには十分すぎる内容だった。 「でさ、デリヘルに電話したわけよ。初めての店だったけど狙いの新人がいたからな。そしたら人気がある子みたいで、深夜なら空いてるって言われてさ、こちとら店が終わった深夜しかいけないわけよ、こりゃ願ったりかなったりだと思ってな、すぐに予約したさ」  店終わりにデリヘルに行って満足する、それがアレクサンダーにとって一番の贅沢だった。店が始まる前にめぼしい子を予約して、店が終わると向かう、それが彼のルーチンだ。 「店の受付の男が言うわけよ、結構丁寧な口調でな。それでは予約しておきますのでお名前を頂戴できますか。偽名で結構ですので」  偽名で結構ですのでって言われるのか。冷静に考えるとすごい状況だな。聞く意味あるのかと思うがけっこう普通のことらしい。そう、誰も風俗店で本名を名乗りたくないという思いに配慮した形だろう。 「でも俺は本名を名乗ったんだよ。堂々とな。負けたくないからな。ちゃんと佐藤義男って名乗ったんだ」  何に負けたくないのか全然分からないけど、そういうものらしい。しかし、店からの返答は佐藤さんにとって意外なものだった。 「佐藤はたくさんおりますので、できれば別の変わった苗字でお願いします」  本名を名乗ったら佐藤ではダメだと言われたらしい。  どうも、偽名でもいいと言われる、もしくは恥ずかしいという理由で自発的に偽名を名乗る場合、一番手頃だからと「佐藤」を使う人が圧倒的に多いようなのだ。別の機会に風俗店の店員に聞いた話では、客の6割が佐藤だったという例もあるようだ。1.5%しかいないはずのあの佐藤が風俗店には60%いるのである。  そう、風俗店は日本で一番佐藤がいる場所なのだ。  予約表に並ぶ佐藤佐藤佐藤佐藤の文字、これでは予約表の意味をなさない。店側にとっても苦肉の策だったのだろうと思う。 「できれば別の偽名でお願いします」  “別の偽名”という果たして何の意味があるのか全く持って理解できない新概念の誕生に佐藤さんは困惑した。 「なるべく変わった苗字でお願いします」  佐藤さんはパニックになった。恥ずかしさを乗り越えて自分の本名を名乗ったというのに、それではダメだと言われたのだ。名前を奪われるという行為は相手を支配するときにしばし行われる。そういった意味では佐藤さんはこの店に支配されつつあったのかもしれない。  とにかく変わった苗字、変わった苗字、日本一多い佐藤という苗字を背負ってのほほんと生きてきた彼にはない発想だった。  考えがグルグル回り、今まで出会った全ての名字を思い出していた。そしていつしか、あらゆる苗字と被ってはいけないという考えに変わっていた。それは強迫観念だったのかもしれない。 「アレクサンダーです」  狂った果実となった佐藤さんはアレクサンダーさんとなった。絶対に被ってはいけないと思ったのだ。たぶんこれは被らない。  アレクサンダーさんの悲劇はこれだけで終わらなかった。 「下の名前はどういたしましょう? 偽名でけっこうですが」  そう言われた瞬間に急に恥ずかしくなってしまって、さきほど「佐藤義男」と名乗った手前、下の名前まで偽名にできない、と思ったそうだ。そもそも、アレクサンダーなら絶対に被らないんだから下の名前いらないだろ。唯一無二だろ。 「義男でいいです」  こうしてアレクサンダー義男、というよく分からない存在が出来上がってしまった。
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アレクサンダー義男の悲劇はまだ終わらなかった
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