第535回 5月12日「中野ブロードウェイのカフェで」
―[渡辺浩弐の日々是コージ中]―
・僕は小説家をやりながら中野ブロードウェイというところで小さなカフェを経営している。新刊が出る時はここでサイン会やイベントをやったりする。
・10年くらい前、そこで妙な事があった。いまだにわけがわからない、不思議なできごとが。
・TAGROさんという漫画家/イラストレーターの方がいる。すごくかわいらしい女の子をかく人で、女性からの人気も高い。僕の小説の表紙絵をお願いしたことがあり、その出版記念として、カフェで公開トークショウをやることになった。
・TAGROさんが日本酒好きということもあり、出版社の担当編集者と話し合い、当日は樽酒をあけお客さんにもふるまうことになった。そのためにヒノキの一合マスを百個ほど用意した。来場者全員にプレゼントして、そのマスでお酒を飲んでもらおうというわけだ。
・ところがイベント開始直前に、未成年の客も結構来そうだということがわかった。一人一人年齢を確認する暇はない。急遽お酒の提供はあきらめ、ただしせっかく用意したマスは記念品として配ることになった。ここで心優しいTAGROさんから提案があった。ただマスをもらっても意味不明だろうから、自分が直筆サインとイラストを入れましょう、と。
・開演時間は迫っている。しかもマスは百個もある。大変な作業だったが、TAGROさんはその一つ一つに、心をこめて素敵な絵を描いていた。10個……20個……しかし時間は過ぎていく。開演時間が近づく。店の前には長蛇の列ができていく。30個。40個。TAGROさん、がんばる。しかし遂に開演の時間になっても、まだ半分ほどしかかけていなかった。待たされているお客さんが、ざわつき始めた。
・僕は店の外に出て、頭を下げた。朝早くから並んでいる人もいるのだ。「ごめんなさい、もう少々お待ちください」TAGROさんのおかげで、若い女性客がとても多かった。「準備はできているんですが」僕は声を張り上げた。
「今、TAGROさんが、マスをかいてるもので」
・ざわめきがぴたっと止まった。聞こえなかったのかと思い、僕はもう一度言った。
「TAGROさんが急遽マスをかくことになりまして。今がんばってますので、すぐすみますので、終わるまで待っていただけますか」
・空気が凍り付いていた。みんなぽかんとしている。その時、僕は気付いた。別に店外で待っていてもらう必要はないではないか。もう中に入ってもらってもいいのだ。マスは、かけたものから配る形でも。
「あ……もしよろしければ、中に入って、ごらんになりますか。TAGROさんがマスをかいているところ」
・そしたら、みんな頭をぶるんぶるん振るのである。全力の拒否。なぜだ。TAGROさんがマスかくとこ見るのがそんなにいやか。ファンなのに、なぜ。
・10分後、全てのマスはかきあがった(僕も1個もらった=写真)が、なぜか列からは女性がいなくなってしまっており、結局男性客ばかりのイベントになった。それはそれで盛り上がったが。
※そんなTAGROさんはもちろん今でも大活躍中です。→読んでみて
作家。小説のほかマンガ、アニメ、ゲームの原作を手がける。著作に『アンドロメディア』『プラトニックチェーン』『iKILL(ィキル)』等。ゲーム制作会社GTV代表取締役。早稲田大学講師。
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