更新日:2023年05月15日 13:21
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山口組の分裂騒動から5年。“三国志”はいよいよ最終局面へ…

分裂劇は髙山若頭の収監から始まった……

 神戸側関係者は「次は我が身」かと、さぞかし戦慄していることだろう。六代目側の組員をかくも我先にと戦場に駆り立てる、髙山への恐怖はどこから来ているのか。 「六代目側において、髙山による支配が始まったのは、’05年の暮れから。司忍組長と髙山若頭による六代目体制は、同年8月に発足したが、司は直後の12月に懲役6年の刑で収監されてしまった。トップ不在の苦境を迎え、髙山が実質的なトップとして組織の舵を取るようになったわけだ」(六代目側傘下組織の元幹部)  司の留守を預かる髙山は、直系組長らに総本部への日参を命じるなど、厳しい規律を課した。 「髙山が決めたルールを破ったり、反抗的な態度をわずかでも見せれば容赦なく処分。髙山よりもキャリアが長く、山口組の発展に巨大な貢献をしてきた傘下組長であってもお構いなしだ。その代表的な例が、六代目体制で舎弟を務めた後藤忠政に出された除籍処分だろう」(神戸側の傘下組織組員)  後藤といえば、五代目山口組体制では最高幹部の地位にあり、芸能界や実業界にも幅広いパイプを持っていた超大物ヤクザだ。そんな男を’08年10月、髙山はバッサリ切ったのである。山口組定例会を病欠しておきながら、芸能人とのゴルフコンペに興じていたことが処分理由だった。 「反発する傘下組長が出るのは当然で、山口組上層部を批判する内容の怪文書も出回りました。しかし髙山はいっさい動じず、直系組長の2人に絶縁、5人に除籍、3人に謹慎の各処分を下したんです。彼らが謀反の謀議を開いたというのが理由でした」(同)  この大量粛清事件以来、直系組長らは髙山の締め付けを耐え忍ぶ日々を送ることになる。

直系組長らに訪れた突然の転機

 しかしそんな彼らに、不意に転機が訪れる。’10年11月、京都で建築業を営む男性から、みかじめ料として4000万円を脅し取った疑いで髙山が逮捕・起訴されたのである。髙山は一貫して無実を訴えたが、’14年5月に懲役6年が確定。翌6月に出頭して服役生活に入った。髙山という重しから解放された直系組長たちに、光明が差した瞬間だった。  かくして綿密な準備の末、’15年8月に直系組長13人が離脱して神戸側を立ち上げ、山口組は分裂状態に突入したのである。 「四代目山健組組長の井上邦雄を頂点とする神戸側は、司と髙山の出身母体である弘道会による強権支配からの脱却を図り、真の山口組を取り戻すとアピールしました。これに賛同する者も少なくなく、同11月には六代目側幹部だった藤原健治、翌12月には六代目側直参の古川恵一が電撃移籍。他にも六代目側で処分されていた元直系組長たちが続々と現役復帰し、発足から半年足らずのうちに、勢力は倍増していましたね」(週刊誌ヤクザ担当記者)  だが、新組織の高揚感は、早くも’16年5月に曲がり角を迎える。 「神戸側を資金面でバックアップしていたのは、池田組組長の池田孝志だが、その最側近が弘道会系組員に射殺されたんだ。ヤクザの論理としては、即座に報復すべきだが、なぜか井上は『動くな』と指令を出したらしい。7月と8月にも神戸側の関係者が殺される事件が連続したが、それでも明確な報復の動きはなかった。振り返ればあの時期が神戸側のターニングポイントだったんじゃないか」(関東で活動する組織の幹部)  専守防衛に徹する日本のように漫然と時間を浪費し続けた井上。その指導力に、傘下の若手が疑問のまなざしを向け始めたのだ。
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神戸山口組の再分裂、そして三つ巴の戦いへ
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