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朝倉海YouTube動画の前田日明にファン騒然。かつての格闘王の面影は…

昭和プロレスから見てきた者にとって、前田日明は伝説の男

 前田は1978年、新日本プロレスでプロレスラーとしてデビュー。190cmを越える長身、バックボーンである空手を生かした蹴りなどのダイナミックな攻撃で将来を期待され、ヨーロッパ遠征を経て83年に凱旋帰国すると、アントニオ猪木をはじめ世界の超大物レスラーが集まるリーグ戦に大抜擢。プロレスが金曜8時に生中継されていた黄金時代で、端正なルックスで女性人気も高かった。この頃は確実に、「未来のエース候補」だったのである。  新日本プロレスのエースへの道も期待された前田の運命が変わったのは、84年に旗揚げした新団体「(第1次)UWF」に参加したことからだ。このあたりは説明すると長くなるので省くが、ここで前田は従来のプロレスとは一線を画した、格闘技寄りのプロレスに進んでいく。  その中ではスーパータイガー(元タイガーマスク・佐山聡)との“ケンカマッチ”が取り沙汰されたこともあった。だがUWFは経営的に行き詰まり、前田らは「UWF軍団」として新日本プロレスにUターン参戦。ここで前田らは大きな注目を浴びることになる。ロープに振られても戻ってこない、いわゆるプロレスらしい大技を使わず蹴りや投げ、関節技で相手を仕留める「UWFスタイル」と、猪木率いる新日本勢との激突は「イデオロギー闘争」として観客を熱狂させたのだ。  この新日本参戦時代にも試合後の猪木のアゴに強烈なキックを入れたり、アンドレ・ザ・ジャイアントと、やはり“ケンカマッチ”寸前になったりと、いくつも“事件”を起こした前田だったが、87年11月には長州力の顔面を背後から蹴り飛ばすという「顔面蹴撃事件」を起こし、新日本プロレスから無期限出場停止の処分を受ける。  しかしかねてから自分の理想のスタイルを追求したいと考えていた前田は、これを機に高田延彦らを従えて新日本を離脱。88年5月に「(第2次)UWF」を旗揚げする。当時、従来のプロレスに真っ向から戦いを挑んでいたUWF勢は熱狂的なファンを生んでおり、UWFは大人気を博した。主催する大会はいずれも超満員で、社会現象とも呼ばれるほどのムーブメントを巻き起こしたのだ。  だが、東京ドームにまで進出したUWFは、長くは続かなかった。経営陣との対立が引き金となり、1991年初頭に、わずか2年半の幕を閉じたのだ。所属選手たちは3派に分裂したが、孤立した前田はたった一人での旗揚げを余儀なくされ、同年春に新団体「リングス」を設立する。

数々のスター選手を発掘、朝倉兄弟も……

 このリングスで、前田はオランダ、ロシアなどから選手を招聘し、一大ネットワークを作り上げる。前田自身はヒザの故障による長期欠場などもあって、選手としては思うように活躍できなかったが、ロシアのヴォルク・ハンを日本に初招聘し、同じくロシアのエメリヤーエンコ・ヒョードル、ブラジルのアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラなど、後にPRIDEで大活躍する外国人選手たちを次々に発掘し来日させていった。ちなみにK-1で大活躍したピーター・アーツも、初来日はリングスである。  99年には自らの引退のリングにアマチュアレスリングの英雄アレクサンダー・カレリンを上げ、手を合わせた。また08年にはケンカ自慢の不良を集めた格闘技大会「THE OUTSIDER」を旗揚げ。未来・海の朝倉兄弟はこの大会から頭角を現した選手たちだ。  改めてまとめると、新日本プロレス時代は大型のエース候補として脚光を浴び、UWFでは社会現象とも言えるムーブメントを起こし、リングスでは世界中から“未知の強豪”を発掘。そしてTHE OUTSIDERではまた新たなタイプの強豪たちを世に送り出した。  前田日明は、そんな輝かしい経歴の持ち主なのである。だからこそ、それを知っている者はみな、「メロメロらぶりんあっきゅんご主人様」と命名されてニコニコしている前田を見て戦慄するのである。  ちなみに動画では、たびたび「前田さんと言えば怖い人というイメージ」という言葉が出てくる。リング上でもその片鱗は何度も見せているのだが……決してYouTubeで「前田 坂田」で検索したりしてはいけない。  トップに出てくる動画は「次のコンテンツは、一部の視聴者にとって攻撃的または不適切な内容を含んでいると YouTube コミュニティが特定したものです。ご自身の責任において視聴してください」と注意書きが出てくるほどなので、決して軽い気持ちで再生してはいけない。あのメイドさんに見てもらいたい……なんて決して思ってはいけないのだ!<文/諏訪ミツ雄>
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