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コロナ禍の必読書?「散歩」の魅力を描いた谷口ジロー『歩くひと』が復刊!

極端に少ないセリフと精緻で雄弁な絵

 セリフは極端に少ない。カメラはただひたすら歩く男を追うだけ。にもかかわらず、谷口ジローの精緻なペンとスクリーントーンで描かれる画面は、とてつもなく雄弁だ。動植物はもちろん、雲や風、雨や陽射し、果ては建物や道路までが、生命力に満ちた存在として立ち上がってくる。それはもはや単なる風景ではなく、ひとつの生態系を持つ世界だ。その場所の匂いや温度、湿度まで感じさせる、ヴァーチャルリアリティを超えた“アナログリアリティ”。読者は主人公と一緒に歩いているかのような錯覚に陥る。  そしてまた、この主人公が圧倒的に自由なのだ。通りすがりの駄菓子屋で紙風船を買い、人目も気にせずポンポンしながら歩く。模型飛行機が高い木の枝に引っかかって困っている子供を見かければ、裸足になって木に登って取ってやる。夏の夜には無人のプールに忍び込み全裸でひと泳ぎし、濡れた体に服を着て裸足のままで歩いて帰る。深夜に酔っぱらって帰宅して鍵がないのに気づき、酔い覚ましがてらの散歩中たまたま目に入ったマンションの非常階段を駆け上がり屋上でごろ寝。突然の夕立に見舞われても悠々と歩き、途中の銭湯でひと風呂浴びる。そんなときの彼の表情と肉体は、生きる喜びに満ちている。「歩く」という行為をこれほど魅惑的に描いたマンガはなかなかない。
歩くひと2

『歩くひと 完全版』(小学館)より (c)パピエ

 この『歩くひと』は、谷口ジローがかつて暮らした清瀬市(多摩地区北東部で埼玉に隣接)周辺が舞台となっている。いわゆる「武蔵野」に属する地域。そこで谷口は、作中同様、庭付きの家で犬を飼っていた。その犬を連れての散歩が、同作執筆のきっかけとなったという(同じく当時の体験を基に描かれた『犬を飼う』も号泣必至の名作)。まさか谷口自身が夜のプールで全裸で泳いだとは思えないが、歩きながら見たもの、感じたことが作品に反映されていることは確かだろう。海辺に旅行に来た主人公夫婦が〈小浜海岸7㎞〉という案内板を見て「歩いてみようか」「うん」と会話するシーンがあるが、これも“歩くひと”でなければ到底出てこない発想だ(7㎞て……)。
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『歩くひと 完全版』(小学館)より (c)パピエ

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谷口ジローが描いてきたさまざまな“歩くひと”
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歩くひと 完全版

フランス文化勲章シュヴァリエ受章の漫画家・谷口ジロー氏が、世界に「発見」されることになった名作が、初の全エピソード収録&カラーページ再現の完全版として登場!
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