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部活を見に来た親が「下手くそ!」…毒親の間違った愛情がのちのDV夫を作った

親とまったく同じ振る舞いを妻に行なった僕

 僕が妻にした加害は数え切れないほどありますが、その1つが「あなたのためになるから」と無理矢理させていたアート活動でした。  詳細は書けないのですが、彼女は僕から見て、本当に素晴らしい才能を持っている人です。実際に、なんとかお願いしたり、高圧的に要求したりすることを通して作った作品は、相場の10倍もの値段で売れるほどでした。  僕はそれで有頂天になりました。「天才を見つけた!」そして「その才能の発揮に自分が貢献できている!」と。きっと、教育ママやステージママと呼ばれる人も同じ心理なのかもしれません。  その裏には「才能がなかった自分は不幸だった。才能がある人なら、この人のためになるのだから、頑張らせた方が良いのだ。たとえこの人が今は望んでいなくても、大きな成果が出たらきっと喜ぶはずだ、感謝してくれるはずだ」という思いがありました。  しかし、妻は自分が作品を作ること、それが誰かに評価されること、さらには高値で買ってもらうという価値の証明までなされても、決して嬉しそうにすることはありませんでした。僕が勝手に設定した締め切りが近づくと陰鬱な様子になり、泣き出すこともありました。  彼女はただ自分が思うように、誰に知られるためでもなく自分のために作品を作っているのであって、僕に勝手に製造スケジュールを立てられ、勝手にノルマを設定され、それがこなせなければ責められるような日常は、最初から最後まで一度だって望んだことはありませんでした。それは、全て僕の望みでした。  僕は彼女が締め切り近くになっても作品を作らないと嫌味を言いました。「家事なら僕がやるから、その分、作品を作ってくださいよ先生」と言ってみたり、せっかく作ってくれた料理も「これに時間を使うくらいなら作品を作ってくれたほうが嬉しい」と言ったこともありました。

妻に押し付けていた、歪んだ「愛の定義」

 この記事を書いていると、当時これを言われていた妻がどれほど傷つき、苦しめられ、日常のあらゆる生活を息苦しく思っていたのかを想像すると、本当にいくら謝っても決して許されないことだと心底思います。  本当に恐ろしいことに、ぼくはこれを「愛」だと思っていました。この人の才能を信じ、それを伸ばし、その人がその才能だけで食べていけるようになることを支援すること。「相手が嫌がっていようと」愛なのだと、信じていました。  今ではこれが加害であり、支配なのだとわかります。愛と加害、愛と支配の区別がつかずに育てられた僕は、それを妻との関わりにおいてもそのまま再現したのでした。結局、これが僕と妻の離婚話に繋がる最大の要因になっていき、同時に僕の変容の最大のきっかけにもなったのですが、それはまた別の機会に記したいと思います。  現在、妻との関係は本当に大きく変わりました。それは「妻の感じ方」を尊重できるようになったからです。妻「が」大切にしたいと思うものを僕も大切にして、妻「が」傷つくと感じる行動を取らないようにする。  相手が大切にしたいことに「そんなことどうでもいいじゃん」と馬鹿にしないこと。相手が傷ついたり嫌な気持ちになったことに「気にしすぎなだけじゃん」と軽んじないこと。  これが相手を愛すること、相手の感じ方を尊重することなのだと、今では思います。
DV・モラハラなど、人を傷つけておきながら自分は悪くないと考える「悪意のない加害者」の変容を目指すコミュニティ「GADHA」代表。自身もDV・モラハラ加害を行い、妻と離婚の危機を迎えた経験を持つ。加害者としての自覚を持ってカウンセリングを受け、自身もさまざまな関連知識を学習し、妻との気遣いあえる関係を再構築した。現在はそこで得られた知識を加害者変容理論としてまとめ、多くの加害者に届け、被害者が減ることを目指し活動中。大切な人を大切にする方法は学べる、人は変われると信じています。賛同下さる方は、ぜひGADHAの当事者会やプログラムにご参加ください。ツイッター:えいなか

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モラハラ、パワハラ、DV
人間関係は“ことば”で決まる

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