スポーツ

谷沢健一が中日の監督になれなかった理由「星野さんとの確執がどうこうって言われるけど…」

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは?あの行動の真意とは?最終回となる今回は、’70〜’80年代を代表する巧打者・谷沢健一と中日ドラゴンズという球団の関係性に迫る。

中日一筋で現役を終え、「監督間違いなし」と期待されるも……

谷沢健一 プロ野球という世界では、確固たる信念のもと輝かしい成績を残したとしても、球界での“未来”が約束されるわけではない。フロントとの確執、理不尽な政治の駆け引き、マスコミの印象操作……。サラリーマン社会と同様に、どんなに信念を貫いたとしても、それを煙たがる者によって道を阻まれることも往々にしてある。  プロ野球界でスジを通してきた男たちの信念を追った本連載だが、彼らへの取材から、そんな一端が見えてきたのも事実だ。連載最終回では、輝かしい成績で地元ファンからも選手からも愛され、「監督間違いなし」と言われた男のエピソードを紹介していきたい。 “ヤザワ”と聞いて真っ先に「永ちゃん」を想起するのは新人類世代(’55〜’65年生まれ)。一方、“ヤザワ”と聞いて「中日の谷沢」を即座に連想するのがバブル世代(’65〜’69年生まれ)だ。巻き舌で“ヤザワ”と言おうが、冠に“中日の”をつけようが、俺たちの“ヤザワ”がレジェンドであるのは間違いない。

スター街道を歩んできたが…

 野球界の“ヤザワ”である谷沢健一は、東京六大学野球のスターとして早稲田大から’70年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。ルーキーイヤーには新人王を獲得し、’74年には5番打者としてリーグ優勝に貢献。翌々年には首位打者に輝くなど、“E.YAZAWA”に負けず劣らずのスター街道を歩んできた。  しかし、’78年に古傷のアキレス腱痛が悪化し、そこからおよそ1年半を棒に振る。しかし、元特務機関諜報員だった小山田秀雄氏が編み出したという酒マッサージにより見事復活。’80年に2度目の首位打者を獲得した。  地獄の淵から生還し、見事中日を代表するスターに返り咲いた谷沢。多くのファンは「谷沢はいつの日か中日の監督になるものだ」と勝手に決めつけていた。なのに……だ。中日のスター谷沢は、73歳になる現在も中日のコーチを務めたことすら一度もない。  なぜ谷沢健一は監督になれないのか――。谷沢への取材前、筆者は芸能リポーターのように勝手気ままに憶測を立てていた。
次のページ
なぜ谷沢健一は監督になれないのか
1
2
3
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


確執と信念 スジを通した男たち確執と信念 スジを通した男たち

昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊


記事一覧へ
おすすめ記事
ハッシュタグ