セクハラ告発に逆ギレする男の稚拙な被害者意識
映画監督の榊英雄、園子温、俳優の木下ほうか、映画プロデューサーの梅川治男など、映画関係者による女優たちへの性加害が相次いで報道され、映画界で悪質なセクハラ、性行為の強要が常態化していたことが明らかになった。
ハリウッドや韓国に遅れること数年、日本映画界でもセクハラの膿が出されはじめましたが、ずいぶん酷いですね、AV業界のほうがよほどクリーンですよね、と二日連続で知人に言われたのだが、ポルノを愛する私が聞いてもなかなか頓珍漢な発言だと思う。
なんとしても出たいと思って出演する人が多い映画と、できれば出たくなんかないが背に腹は代えられぬと思って出演する人が多いAVでは、権力の構造と問題が違う。「何か犠牲を払ってでも出演機会を逃したくない」という思いにつけ込むAV監督があまりいないのは、AV出演自体が何かの犠牲である場合が多いからだ。
その代わりに、出演を隠していることにつけ込まれたり、お金に困っていることにつけ込まれたりすることはままある。そして黒い世界に黒いなりの悪が生まれるように、金色の世界には金色だからこそ生まれる悪がある。
複数人の女性が過去に受けた性被害を告発した週刊誌の記事を皮切りに、映画監督や俳優、プロデューサーのスキャンダルが相次いで報道された。新作映画の公開が中止される事態にも発展しているが、起こるべくして感のある業界の「膿出し」作業は今後もしばらく続くと推察できる。
人間の異常さを描こうとする人が、破天荒や非凡をはき違えて、自分に裁量権がある状況で、利害関係のある相手と、一般的な意味でのアンモラルな性行為を重ねているとしたら、その精神性はあまりに凡庸だ。荒んだ生活を送っているからこそ人間のどろどろとした部分が映し出せる、なんていうのは思い上がりで、それなら社会の闇を描きながら撮影現場のホワイト化に努めたポン・ジュノのほうが破天荒だと言える。
もちろん、好きな作品の作者が嫌なやつだった、なんてことはよくあるので、作者と作品の単純ではない関係をどう捉えるか、作者を罰しながら作品を愛することはいかにして可能かという議論は尽きない。何が許されないのかを決める常識や法が常に変化するものである以上、どの時点で罪を罪とするかという問題もある。
しかしそのような事情をすべて考慮しても、今回報道された監督たちの謝罪(というより非謝罪)は全く腑に落ちないものだった。報道が事実と違うことや性行為の解釈が両者で食い違うことはあっても、謝罪を欲しているであろう告発者に“一言も謝らないで良い”事態というのは現実的にありえないのだ。
すべてのセックスで、人は何かしら傷つくことがあり、何かしら傷つけることがある。複雑な加害と被害が入り乱れる性の領域で、「しかるべき措置」などという逆ギレ文書を発表してしまう一点の曇りもない被害者意識は、少なくとも性を題材として扱う者のそれとは思えない。
「あれが罪なら楽勝だ、いつだって、懺悔できる」。告発された監督の代表作である『愛のむきだし』の主人公は、愛人のせいで人が変わってしまった神父の父に「懺悔」するために盗撮魔となって罪作りに励む。複雑な性倒錯が詰め込まれた大長編の、最初の鍵は「懺悔」にあった。性の複雑さも懺悔のアイデアも浮かび上がらない文書は、作品を愛した人にこそ失望されてしかるべきものなのだ。
同作には「いやらしい身体ですみませんと言え」と叫びながら娘を陵辱する男も描かれるが、作者に重ねるとしたらこちらの、「すべて悪いのは世界であって自分ではない」という単純で単眼的な人間性のほうなのかもしれない。ちなみにその男は映画序盤で、娘にチンコを切り落とされる。
※週刊SPA!4月12日発売号より
’83年、東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。専攻は社会学。キャバクラ勤務、AV出演、日本経済新聞社記者などを経て文筆業へ。恋愛やセックスにまつわるエッセイから時事批評まで幅広く執筆。著書に『「AV女優」の社会学』(青土社)、『おじさんメモリアル』(扶桑社)など。最新刊『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』(発行・東京ニュース通信社、発売・講談社)が発売中
Hasta la vista, baby.
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