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90歳の広岡達朗が球界レジェンドを大酷評「原なんか最たる例だ。バカモンが!」

広岡達朗が回顧する「谷沢と江夏」

「谷沢も然り。早稲田の後輩でもあり、バッティングはいいものを持っていた。中日は、杉下茂さんにはじまり星野(仙一)と明治大学閥だから。かつては中京地区出身者も優遇されていたらしいけど、星野が目を光らせていた頃の中日では、早稲田卒で千葉出身者の谷沢はどうもこうもできない。それでも他球団で指導者になれないっていうのは何かあるっていうこと」

’70年〜’80年代にかけて中日ドラゴンズの主軸を担った谷沢健一。球団生え抜きの大スターが、引退後に中日でコーチ、監督を務めなかった真相を語る

 早稲田の後輩でもある谷沢健一が一度だけ西武で打撃コーチ(1994−95)をやっていることなど、お構いなしだった。

「江夏はどうしてあんなことに……」

 広岡にとって江夏豊の存在は、ある意味特別だった。82年の西武対日本ハムのプレーオフで、球界ナンバーワンのリリーフ投手に君臨していた江夏に対し、広岡は畏敬の念を持っていたという。 「どうやっても江夏は打てない」と悟った当時西武ライオンズ監督の広岡は、攻略法を考えに考えた。正攻法では勝ち目がないと判断した広岡は、守備に弱点があると睨み、プッシュバントを多用した。策略はハマり、日本ハムを下し、パ・リーグ優勝を飾って、そのまま日本一へと突き進んだ。いわば、江夏は’80年代の西武黄金時代を築く上で最初に立ちはだかった難敵だったわけだ。そして、’83年のオフ、西武は1対2のトレードで江夏豊を獲得した。 「根本(陸夫)さんが『おい、ヒロ、江夏を獲りに行くぞ!』と言うもんだから、『獲り行くのなら獲ってください』と返したら、まさか若手の柴田(保光)と木村(広)を放出するとは思わなかった。『なんで彼らを出したんですか!』と根本さんに怒ったよ。当時35歳の江夏のピークはとうに過ぎていたからね」  広岡は、このトレードが絶対的に割りに合わないと感じた。現に、日ハムにトレードされた柴田は日ハムのエースに登り詰め、ノーヒットノーランまでやってのける投手に成長した。
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歴代最高左腕の呼び声高い江夏豊。若くしてエースの座に上り詰めた阪神時代の確執、その後も移籍先で囁かれた騒動の真相を述懐

「江夏はキャンプで帽子を被らずにプレーするなど、最初から違っていた。かつての阪神の大エースが、サイン盗みが得意の野村の南海に行ってリリーフをやり、その野村の元でプレーした古葉(竹識)の広島へ移籍して日本一になった。それなのに、どうしてあんなことになるんだ……」  広岡は怒りを含んだ物言いを見せた。金田正一と双璧するほどの歴代ナンバーワン投手の評価さえある江夏の引退後の事件について、憤慨する。 「人間は死ぬまで勉強しなくてはいけない。監督だ、解説者だとふんぞり返っていては堕落する。原なんか最たる例だ。バカモンが! 今の巨人は狂っとる」  結局、巨人原監督への苦言を呈しないと、どうしても気が収まらなかった。 「俺のことはまだまだ話してないことがたくさんある。広島で原爆の黒い雨にもあたっている。でも誰も聞きにこない。早くしないと召されるぞ!」  広岡は、豪快に笑った。
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

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