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「打撃練習中にバットが飛んできた」巨人ルーキー時代の広岡達朗を襲った“プロの洗礼”とその理由

「いつまでも打っているんじゃねえ」練習中にバットが飛んでくる

ルーキーの広岡がもっとも面食らったのは、入団間もない頃のバッティング練習での出来事だ。 バッティングケージに入ってカーン、カーンと快音を響かせながら10球ほど打っていると、どこからともなくバットが飛んできた。 「なんだ?」 周りを見ると、ケージの近くに立つ南村侑好の姿が視界に入った。南村は、早稲田大の先輩でもある。 「はい、南さん、どうぞ」 素振りをしていてうっかり手を滑らせたんだなとバットを持っていった広岡だったが、南村は不機嫌そうな顔して「おまえ、はよどけ!」と言う。思っても見ない言葉を浴びせられ焦った広岡だったが、すぐにわかった。手を滑らせたんじゃない、わざとだ。バットを投げつけたのは、いつまでも打っているんじゃねえという意味を込めた洗礼だ。パワハラという便利な言葉がない時代、こんなことは日常茶飯事だった。広岡は言われたとおりそそくさとケージを出るしかなかった。動揺を隠せないままでいると、サードのレギュラーで慶應出身の宇野光雄が近づいてきて声をかける。 「おいヒロ、俺のとこで打て」 「宇野さん、いいんですか?」 「俺は大丈夫だから打て打て、ヒロ」 「ありがとうございます」 南村の予想だにしなかった行動に焦りと戸惑いを覚えていた広岡だったが、ここで遠慮してはいけないと思った。学生野球じゃない。食うか食われるかのプロ野球なのだ。図太くなければ生きていけない。宇野の言葉に甘え、別のケージで何食わぬ顔をしてバッティング練習を続けた。 この出来事によって、広岡はプロとは何かを考えるようになる。通常なら早稲田の先輩である南村が後輩の広岡に目をかけてあげるものなのに、容赦ない鉄槌を下す。そして手を差し伸べてくれたのが、慶應の宇野。たまたまかもしれないが、これにも意味があると感じるのはもっと後のことだ。 広岡は、どこかで驕りがあった自分を恥じた。褌を締め直さないと。新たな再スタートとなった。 プロの洗礼を受けて目が覚めた広岡は、自らを〝六大学野球のスター〟ではなく〝プロ野球選手〟として一から鍛え直すことから始めた。守備に関してはめっぽう自信があったが、ことバッティングに関してはキャンプ終盤まで打てる気配がなかった。しかし、当時はコーチが丁寧に選手を指導するということもなかった。だからといって指を咥えてじっとしているわけにはいかない。広岡はすがる思いで、三年連続でベストナインを獲得していたショートの平井に教えを請いに行こうと決意した。
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仁王立ちで広岡を睨み続ける平井に…
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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