更新日:2024年04月07日 17:18
スポーツ

「ヒロさんヒロさん!」長嶋茂雄と広岡達朗の知られざる関係性と“野球の神様”川上哲治との確執

〝野球の神様〟川上哲治との確執

「カワさん(川上哲治)には、入団から引退までずっと虐げられ続けた。もし水原(茂)さんがずっと監督を務めていたら、何度も三割を打ってるよ」 冗談めかして話す広岡だが、内心本気ではないかと感じさせるほど川上とは巨人時代に壮絶な軋轢を生んでいる。広岡と川上の確執の要因は、野球観の相違というより人間性が相容れなかったように思える。 広岡が早稲田から巨人に入団した頃の巨人軍はリーグ三連覇中で、名称と謳われる水原茂監督のもと、チームの大黒柱としてプロ入り一四年目の四番打者・川上哲治が君臨していた。 「一番上の兄貴と川上さんが同じ歳なんだ」 広岡が川上について初めて語るときに発した言葉だ。 一二歳離れた長兄に大層可愛がられた広岡達朗。兄弟の中でも一番大好きだった長兄と偶然にも同じ歳の川上に、何かしらの縁を感じた。一回り上の兄の包み込むような優しさを肌で覚えていた広岡が、川上への距離感を勝手に縮め、憧憬を抱くのも不思議ではない。 「カワさんはファーストの守備が本当に下手だった。『俺はこの辺りしか捕らないからな』と言って、自分の胸のあたりに弧を描く。練習中ならまだしも試合でもその範囲に来た送球しか捕らないんだから。決定的に決裂した日のことは今でもよく覚えているよ。五四年四月二七日の西京極球場での洋松ロビンス戦(現DeNA)で、八対四で勝っていて九回裏を迎えたときのことだった。ピッチャーはベテランの中尾(碩志、通算209勝)さん。俺が一塁に悪送球したんだ。悪送球っていっても大暴投じゃなくて、ちょっとジャンプすれば捕れる球。だけど、カワさんは捕らない。 結局、その次のプレーでもカワさんが捕れる範囲に送球できなくて、一点追加された。そして青さん(青田昇)に逆転満塁ホームランを打たれてサヨナラ負け……。当時は、自分のエラーのせいで負けたから監督や先輩たちに頭を下げても素通り。今だったら、エラーした選手に声をかけないほうが悪いとなるけどね。とにかくゲームが終わってひとりでいると馴染みの記者が来て『えらいことしたね〜』と声をかけられるから『申し訳ないことをしてしまった……』と答えてうなだれていた。これでやめておけばよかったんだが……つい『ファーストが下手クソじゃけ、あれくらい捕ってくれにゃあ野球はできんけぇのぉ』と広島弁で言ってしまった。それが翌日の新聞にデカデカと載って……潮目が明確に変わったのはそこから」 この“神様批判”とも取れる発言が各スポーツ新聞に掲載されたことで、巨人軍に不穏な空気が蔓延し始める。広岡は正論を言ったまでだが、世の中はそう単純ではない。日本プロ野球史上初の2000本安打を達成し“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治を一介の新人が痛烈に批判したのだから、大きなハレーションが起こるのも当然である。
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「いや〜巨人時代の一三年間は虐められたよ」
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1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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