更新日:2024年04月07日 17:18
スポーツ

「ヒロさんヒロさん!」長嶋茂雄と広岡達朗の知られざる関係性と“野球の神様”川上哲治との確執

「いや〜巨人時代の一三年間は虐められたよ」

「確かにバッティングの練習は“神様”と呼ばれるだけあって凄まじかった。調子が悪くなると、二軍の投手を二、三人引き連れて多摩川にて二時間ぶっ通しで打ち続ける。『おい、ヒロ、わかったぞ。来た球を打てばいいんだ』って話していたこともあった。元気があるうちは色気があるから上手に打とうとする。でも二時間近くずっと打っていたら色気もなくなって、来た球を打つだけになる。それが無心。打撃には誰よりもプライドを持っていたね。打撃練習だけは持ち時間など気にせず好きなだけ打つんだけど、守備練習は一切しないから下手クソなままだった」 妄執とでもいうのか、川上は守備が下手だった分、バッティングに関してだけ鬼気迫る勢いでいつも練習していた。打撃こそがプライドの集大成だった。 ある試合前に監督の水原が川上に近づき、バッティングの手ほどきをしようとした。 「おい、カワ、こういうときはこうやって打て」 川上はしたり顏で返す。 「オヤジさん、現役時代何割打ちました?」 水原は何も言えずそそくさと離れて、聞こえるか聞こえない程度で「バッキャローが!」と呟く。 プロ野球創世記の大スターである水原にさえ、平気でものが言えてしまう。誰にも触れられないほどの自負心と自信の塊こそが川上哲治だった。広岡は「凄い」という感情を通り越して恐ろしさを感じた。それと同時に、これが巨人の四番の看板を背負うということなんだと理解した。 “神様批判”と取られた例の舌禍事件以前には、こんなこともあった。 早稲田の貴公子と呼ばれ、一年目からショートの定位置を確保した広岡には若さと勢いがあった。一方、“打撃の神様”川上は三四歳のベテランの域に達し、五四年シーズンは珍しく二割台後半をウロチョロしていた。 川上は、遠征先の宿舎でも調子を取り戻そうと一心に素振りをしている。旅館の構造上、大広間で川上が素振りしているのが二階から見え、広岡は何気なくその部屋へ向かった。 「シュッ! シュッ!」 風を切るバットの音が聞こえる。普通なら声をかけて襖を開けるものだが、何も言わずにいきなり両手で開けた。汗だくの川上は出入り口の襖の真正面にいたため、すぐに気付いた。挨拶もせずに襖を開けている広岡に向かって怒りを滲ませて言う。 「なんだ、なにか用か!?」 「カワさんも苦労してますね」 広岡はいたずら小僧のように思ったことを口にし、それだけ言って帰ってしまった。 「なんだあいつ」と流せたら良かったが、人一倍プライドが高い川上は「あのやろ〜!」と頭に血を上らせた。 二二歳の若輩者ゆえ、調子に乗っていたと思われても仕方がない。ただ、このときは決して川上を愚弄したわけではない。長兄と同じ年の川上に親近感を持ってかけた言葉だ。しかし、川上はそんなこと知ったこっちゃない。クソ生意気な新人、おまけに六大学出身ということも鼻についた。 人間は相手から嫌われているとわかると自らの感情を変化させる。川上に兄を重ね、慕いたかったはずの広岡。だが、川上から疎まれて嫌がらせをされるようになったことで愛憎一体の感情が芽生え、互いに火花を散らすようになっていくのであった。 「いや〜巨人時代の一三年間は虐められたよ、でもよくやったと思う」 一瞬何か思い詰めたような顔をすぐさま打ち消し、目尻を垂らして笑いながら言った。
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

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嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


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昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

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