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再出発、G.G.佐藤の挑戦「野球人のセカンドキャリアを創造したい」

●G.G.佐藤(36歳)の再就職先/前 千葉ロッテ⇒測量会社営業

◆「野球人のセカンドキャリアを創造したい。誰もしてないことに挑戦。これが僕のセカンドキャリア」

G.G.佐藤

G.G.佐藤

 日本で一番多い苗字と、G.G.という風変わりな呼称の組み合わせ。多くのファンに親しまれた佐藤隆彦の野球人生は、歴代最多出場記録を持つ野村克也氏、沙知代夫人、そして息子の団野村氏と縁が深い。

「野村克也さんが監督だったチームで野球を始め、ガリガリだった僕を見た沙知代さんが“猫背でジジイっぽい”とG.G.のあだ名をくれた。大学卒業後には団さんに相談して渡米しアメリカのシングルAでプレー。引退を決めたときはすぐに野村家に報告しました」

 球界から退いた今、G.G.佐藤は測量会社「株式会社トラバース」の営業職に就いている。肩書は「開発営業部マネジャー」。慣れぬデスク仕事に「冷や汗ばかりかいている」と言う佐藤の目下の目標は測量士補の資格取得だ。

「今まで思う存分野球をやらせてもらったので、今度は“野球を支える側”に回りたいんです」という。

 多くのプロ野球ファンにとってG.G.佐藤と紐づいている記憶は、北京五輪の“痛恨の落球”だろう。

「全身の毛穴が開くほど興奮した大会でした。正直、ミスした自分を責めたし、今、思うと必要以上に自分自身を追い込んでしまった。野球が楽しくなかった時期でした」

 ’04年から’10年の7年を過ごした西武でのプロ生活は、自ら「波瀾万丈以上」と語るほどの出来事が身を襲った。特に前述の北京五輪があった’08年は、オールスターでの両リーグ最多票を集めた直後、“全国民からの叱責”を受けるという皮肉。これほどの天国と地獄を見た男はそうはいない。

G.G.佐藤

会社の行動予定表。氏名はGG。カメラマンの要求に「野球」と書き込むちゃめっ気も

「大好きだった野球を自ら嫌いになるほど追い込んでしまった」と述懐する佐藤が再び野球に向き合ったのは、’10年に西武から戦力外通告を受けた直後のイタリア・ボローニャでの生活。その後の人生観を大きく変える言葉と出会った。

「イタリア人が言うんです。『生きていると実感できるのは、ワインを飲んで友人と雑談しているときだ』と。この言葉を聞いたとき、これまでの自分にない感覚というか、もやもやした人生がパッと開けた気分になりました」

 何げない一言から“野球を楽しむための定義”を見いだした佐藤。

「『仕事は何?』と聞かれ『ジョカトーレ(選手)』と答えるとサッカー選手と勘違いされるイタリア。野球がマイナースポーツである国での暮らしは新鮮でした。日々の生活がベースにあって、その上に野球(仕事)がある。日本で、特に西武でプレーしていた頃の僕は完全にその逆で、僕のすべてが野球のためにあり、日々の暮らしを楽しむ感覚があまりにも薄かった。正直イタリアでは『個人の成績なんてどうでもいい』と思えた。それよりチームメイトと勝利を目指してベストを尽くし、試合が終わったら仲間とワインを飲んで思いをぶつけあう。そんな時間の過ごし方が最高に贅沢でした」

 佐藤は次なる夢を明確に描いている。父の会社を成長させ、球界を退いた後輩たちの受け皿とすることだ。実際、昨オフに日本ハムを戦力外となった尾崎匡哉、西武を経て独立リーグで現役を引退した星秀和を採用したのだ。

「セカンドキャリアをサポートする、誰もやったことないことにチャレンジする、これが僕のセカンドキャリアだと思っています」

 スーツ姿も様になる伊達男は、この春、会社の草野球チームで“球界再デビュー”する予定だという。

G.G.佐藤

イタリアから帰国後、クラブチームを経て’12 年オフ、テストで千葉ロッテに入団。’13 年のクライマックスシリーズで逆転3ランを放った。ヒーローインタビュー時の「キモティー!」は決め台詞だ

【G.G.佐藤(本名・佐藤隆彦)】
’78年生まれ。法政大卒業後、1Aでプレー。’03年ドラフト7位で西武入団。’08年北京五輪代表。イタリア暮らしを経て’13年千葉ロッテにテスト入団。西武、ロッテでは伊東勤監督に仕えた。著書に『妄想のすすめ』(ミライカナイ刊)

●成績(NPB)9年間 587試合/打率.276 88本塁打

― 戦力外となった[高齢プロ野球選手]の再就職先【3】 ―

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