雑学

脳梗塞を経てもチャンピオンに。高山善廣が“プロレスの論客”たる理由

高山善廣選手

高山善廣選手 写真提供/大甲邦喜(たいこう・くによし)

 高山善廣(やかやま・よしひろ)はいまから11年まえ、38歳のときに「脳梗塞をやっちゃった」。

 新日本プロレスのG1クライマックス公式戦で佐々木健介(ささき・けんすけ)と対戦したあと、「なにがなんだかわからなくなって」、ドレッシングルームで倒れた(2004年8月8日=大阪・大阪府立体育会館)。

「新日本で試合をすることは、お仕事としてはおいしかった。新日本はプロレスができない高山しか知らなかった。でも、ぼくには馬場さんから教わったプロレス、三沢さん、小橋と闘うことで築き上げてきたプロレスがあった。そういうぼくを観て、新日本はビビったと思う」

「IWGPはわりとカンタンに獲れた。自信がありましたから。でも、プロレスの人気が落ちていたころで、高山がチャンピオンだから人気がないんだ、みたいにいわれた。そうか、ベルトを持ってる人間はそういうふうに批判されちゃうんだ、ということはわかった」

 脳梗塞になったときは「一瞬、ダメかと思った」。試合後、体育館から大阪市内の病院に緊急搬送され、その夜のうちに手術を受けた。大腿部の付け根からカテーテルを入れ、カテーテルが血管のなかを脳まですすんでいって、脳梗塞が起きている部分にステントを埋め込んだ。手術中はずっと意識があって「モニターの映像を観ていた」。

 病院には新日本プロレスの選手たち、何人かが来ていた。手術室から出てきた高山は、その時点ではマヒしていて動かないはずの右手をゆっくり上げて仲間たちに手を振った。

「手術後、なにげなく手を上げてみた。そうしたら、それが動かなくなっていた右側だったんです」

 PRIDEのファイトマネーで家を購入したばかりだったので「あの家、売っぱらうしかないか」なんて思ったこともあったけれど、それはリングに上がっていないときの高山のパーソナルなフィーリングで、“プロレスラー高山”は「倒れた瞬間から、復帰するにはどうしたらいいかを考えていた。動かない手を動かそうとしていた」。

「ケリー・フォン・エリックとくらべたら、オレなんか全然大丈夫だと思った」

 ケリー・フォン・エリックは、バイクの事故で右足首から下を切断したが、リングシューズ型の義足をはいてリングに上がりつづけた――もちろん、当時はその事実は非公開だったが――80年代から90年代前半にかけて一世を風びしたスーパースター。オールドファンには“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックの息子といったほうがわかりやすいかもしれない。

 リハビリらしいリハビリはとくにやらなかった。医師からは「とにかく歩きなさい」といわれたので、散歩とか階段の昇り降りとか、コップをつかんだり放したりする練習など、できるだけ日常的な動きと感覚を取り戻すことを心がけた。

「後遺症は出るかもしれないけれど、その可能性を食生活でカットすることを考えた。だから、血管をつまらせるものは食べない。もともとタバコは吸わない。消化しにくい哺乳類は食わない。肉(レッドミート)は食わない。魚と鶏肉だけ。牛乳も飲まない。飲むのは豆乳だけ」

 またプロレスができるかできないかは“自分との対話”ととらえた高山は、それから2年後、プロレスリング・ノアのリングを復帰戦の舞台に選んだ。対戦カードは、倒れた日に同じリングに立っていた佐々木健介とコンビを組み三沢光晴&秋山準とぶつかったタッグマッチだった(2006年7月16日=東京・日本武道館)。

 カムバック戦からさらに3年後、こんどは“武藤体制”の全日本プロレスでザ・グレート・ムタを倒して三冠ヘビー級王者になった(2009年3月14日=東京・両国国技館)。プロレスリング・ノアでGHCヘビー級王座、新日本プロレスでIWGPヘビー級王座、全日本プロレスで三冠ヘビー級王座を獲得したことで――その時点では前人未到だった――プロレス界のグランドスラムを達成した。

「不思議なもんで、武藤さんから三冠を獲ったら……全部獲っちゃったら、なんか、やり尽くした感があって、そろそろ終わりなのかな、と思った時期もありました」

 いまの高山は“プロレスの論客”である。現役レスラーだからプロレスの試合や(自分自身やほかの選手たちの)技術面について語れるのはあたりまえだけれど、団体に所属していないフリーランサーとしての立ち位置からはプロレス界全体について意見をいうことができるし、プロレスのいいところも悪いところも自由な発想で論じることができる。これは高山だけのオリジナルのポジションだ。

 プロレスファンからプロレスラーになった高山は、行為者/実践者としての説得力のあるコトバでプロレスを論じ、それと同時にプロレスファンとしての目でプロレスを客観視している。現役レスラーでありつづけるのは、どちらかといえばアーティストが作品をつくりつづけるような感覚なのだろう。

「ぼくはUのとき、いちど逃げた。体が壊れる覚悟でUインターに入門して……。高卒でプロレスラーにならなくてよかった。若くしてデビューしていたら、プロレスの幅が狭かったと思いますね」

 Uスタイルを身につけ、全日本プロレスではジャイアント馬場、三沢、小橋らから伝統的なプロレスを学び、新日本プロレスでは新日本スタイルらしきもの――個人的にいちばん心が躍ったのは藤波辰爾、蝶野正洋、西村修らと対戦したときのチェーン・レスリングによる身体の会話だったという――を体感した。

 馬場さんのコメントでいちばんカッコいいと感じたのは「ON(王貞治&長嶋茂雄)の給料を知ったとき、なんだ、それしか稼いでいないのかと思った」という述懐だった。PRIDEで総合格闘技に取り組んでいた時期は、アントニオ猪木に気に入られ、パラオのイノキ・アイランドに連れていってもらったこともある。猪木さんはモハメド・アリとの異種格闘技戦についていろいろと話して聞かせてくれた。

「プロレスの技って全部、だれかのマネから入るんです。ぼくの場合、スロイダー(ベリー・トゥー・ベリー・スープレックス)はゲーリー・オブライトのマネ、ダブルアーム・スープレックスはもちろんビル・ロビンソンでしょ。エベレスト・ジャーマンはノアでGHC、新日本でIWGPを獲ったあたりから使ってるんですけど、あれは『ジャーマン・スープレックス・ホールドはプロレスの芸術品』というメディアによる洗脳ですかね」

 現役選手としてリングに上がっているうちはジャーマン・スープレックス・ホールドを使いつづけるつもりで、ジャーマンができなくなったらきれいさっぱり引退するつもりなのだという。50歳という年齢については「まったく考えていない」。

「ブリッジをするのはコワくないです。ぼくの脳梗塞は頭を打ったとか、首をひねったとか、そういう問題ではない。親父、おばあちゃんもやってるので遺伝でしょ」

「50代になってもね、単純に、このおっさん、すごいなと思われるような50代になりたい。天龍(源一郎)さんなんかも50歳を過ぎてからフツーにG1とか出てた。昔あったでしょ、カール・ゴッチさんと藤原(喜明)さんの試合。ゴッチさん、ジャーマンやってた」

「ぼくがやってないプロレスのジャンルがまだあった。最初はまったく興味なかったけど、大仁田厚に会った瞬間、あ、これがあったと思った」

 ここ1年ほど、高山は大仁田ワールドの“有刺鉄線電流爆破マッチ”のなかに身を置いている。

 もちろん、プロレスがいちばん好きだけれど、アニメも特撮ヒーローものも、プラモデルもバイクも、ロックンロールも海の香りも大好き。昭和の男の子が好きなものはだいたいなんでも好き。

「(プロレスを)もっとエンジョイしたい。もっとエンジョイできると思うんだけど……」

 そこまでいいかけると、プロレスの論客は「まあ、きょうはそんなとこで」という感じでにっこり笑い、それから無言のまま“うん”とうなずいた。(おわり)

斎藤文彦

斎藤文彦

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

※「フミ斎藤のプロレス講座」第35回

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