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ビンス・ジェームスからビンス・ケネディへ――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第29回

「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第29回

 ビンセント・ケネディ・マクマホンが父ビンセント・ジェームズ・マクマホンから興行会社キャピタル・レスリング・コーポレーションを買収したのは1982年6月のことだった。
ビンス・ジェームスからビンス・ケネディへ

ビンス・ケネディ・マクマホンが、父ビンス・ジェームズ・マクマホンから興行会社を買収したのは1983年6月のことだった。このときすでに“1984体制”の設計図が描かれていたのだ。(写真はWWEがリリースした音楽アルバム「ザ・レスリング・アルバム」のジャケット写真。この時代はCDではなくLPレコードなのだ)

 キャピタル・レスリング・コーポレーションはビンス・シニアが1950年代に設立したカンパニーで、WWF(ワールド・レスリング・フェデレーション=当時)の親会社にあたる法人。WWFはあくまでもプロレス団体としての看板で、じっさいは“運営委員会”のような形になっていた。ちょうど新日本プロレスとIWGP、全日本プロレスとPWFのような関係と考えればわかりやすいかもしれない。  36歳(当時)だったビンス・ジュニア、つまりビンス・マクマホンは、67歳(当時)の父ビンス・シニアから“オヤジの会社”を買いとった。キャピタル・――にはオーナー社長だったビンス・シニアのほかにアーノルド・スコーラン、ボブ・マレラ(ゴリラ・モンスーン)、フィル・ザッコー(フィラデルフィアのプロモーター)の3人の株主がいたため、ビンスは役員会議の決議に基づいてこの3人が保有していた株式も買い上げた。  キャピタル・――の買収額は50万ドルとも100万ドルともウワサされたが、この当時のビンスがそれほどのキャッシュを持っていたかどうかはさだかではない。  ビンス・シニアとビンスは、年4回・複数年の支払い契約書を作製し、その覚書のなかには「1回でも支払いの滞納があった場合は契約は破棄。全株式が前オーナーに戻される」「フレッド・ブラッシーの終身雇用」といった条文が記されていた。父ビンスは息子ビンスに対し、ニューヨークのビジネスマンとしてのお手本を示した。  ビンス・シニアがすい臓ガンでこの世を去るのはそれから2年後の1984年5月のことだから、あくまでも推論だが、この売却契約成立の時点でビンス・シニアはみずからの余命を知っていたのかもしれない。ビンス・シニアからビンスへのバトンタッチは、なぜか1983年12月まで公にされなかった。  ビンスはキャピタル・――を買収すると、まずオフィスをマンハッタンからコネティカット州グリニッチに移し(のちに同州スタンフォードに移転)、社名をタイタン・スポーツ社に改称した。ビンスの頭のなかにはすでにある具体的なビジョンが描かれていた。  1982年夏のWWEのヒット商品は、ボブ・バックランド対“スーパーフライ”ジミー・スヌーカのタイトルマッチ連戦シリーズだった。スヌーカが金網の最上段からスーパーフライで宙を舞い、バックランドがこれを間一髪でかわし、スヌーカはごう音とともにキャンバスに墜落。  バックランドが金網からエスケープに成功=王座防衛したタイトルマッチは、いまでもニューヨーカーの記憶の映像に鮮明に焼きついている(1982年6月28日=マディソン・スクウェア・ガーデン)。  ヒールのスヌーカに圧倒的な声援が集まり、ベビーフェースのバックランドがブーイングを浴びせられるという逆転現象が起こった。その後、スヌーカは悪党マネジャーのルー・アルバーノと仲間割れし、観客の期待どおりベビーフェースの道を歩むことになる。  8月には“スーパースター”ビリー・グラハムが約3年ぶりにニューヨークのリングに復帰してきた。金髪だった髪をツルツルに剃り上げ、栗色の口ヒゲをはやしたグラハムは、テコンドーの使い手に変身していた。リングコスチュームもトレードマークだった絞り染めのロングタイツではなくて、グレーの空手パンツだった。  ビンスは“計画”をひとつずつ実行に移しはじめていた。ビンス・シニアが手をつけようとしなかった仕事のひとつは、西海岸エリア進出だった。それはビンス・シニアとビンス・シニアと同世代のプロモーターにとってはやってはいけないことだった。ビンスはまずこの“古い常識”を破壊するのだった。(つづく)
斎藤文彦

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