更新日:2022年06月26日 10:30
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バックランド対アントニオ猪木のミステリー――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第27回

「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第27回

 ボブ・バックランドは、日本のプロレスファンにいちばんなじみの深いWWEヘビー級チャンピオンだった。1970年代の終わりから1980年代前半までWWEと新日本プロレスは“蜜月”の関係にあった。
バックランド対アントニオ猪木のミステリー

WWEのオフィシャル・チャンピオン(1978年当時)。WWE王者=ボブ・バックランド、インターコンチネンタル王者=ケン・パテラ、世界マーシャルアーツ王者=アントニオ猪木、WWEジュニアヘビー級王者=藤波辰爾、WWE女子王者=ファビュラス・ムーラ、WWEタッグ王者=ザ・ワイルド・サモアンズ(アファ&シカ)。新日本プロレスとの蜜月時代だった

 バックランドが初めて新日本プロレスのリングに登場したのは、王座獲得から4カ月後の1978年6月。WWWFヘビー級王座(1979年2月にWWFに改称)とNWFヘビー級王座のダブル・タイトルマッチという形で、バックランド対アントニオ猪木の一戦が実現した(1978年6月1日=東京・日本武道館)。  61分3本勝負でおこなわれたタイトルマッチは、猪木が40分8秒、場外カウントアウトで1本目を先取し、2本目はノー・フォールのままタイムアップのドローに終わった。スコアの上では1-0で猪木の勝利となったが、タイトルマッチ・ルールでWWEヘビー級王座は移動せず、バックランドと猪木はそれぞれ王座防衛に成功した。  この年、バックランド対猪木のタイトルマッチは合計3回おこなわれ、第2ラウンドは1-1のタイスコアのまままたしても時間切れ引き分け(1978年7月27日=東京・日本武道館)。60分1本勝負で争われた第3戦も猪木がカウント勝ちを収めるが、タイトルマッチ・ルールで王座は奪えなかった(197812月14日=大阪府立体育会館)。  ニューヨークと日本を舞台としたひじょうにミステリアスな王座移動ドラマが起きるのは、それから1年後のことだった。猪木は4度めの挑戦でようやくバックランドを下し、日本人レスラーとして初めてWWEヘビー級王座のチャンピオンベルトを腰に巻いた(1979年11月30日=徳島)。  シリーズ最終戦(1979年12月6日=東京・蔵前国技館)でおこなわれたリターン・マッチでは、タイガー・ジェット・シンが乱入して猪木を襲い、バックランドがいったんはフォール勝ちを収めたが、新日本サイドはノーコンテスト裁定をコール。タイトルマッチ・ルールで王座防衛となったが、猪木は不本意な試合結果を理由にベルトを返上した。  それから11日後、猪木、藤波辰爾(当時は辰巳)、坂口征二、長州力ら新日本プロレスの主力メンバーがマディソン・スクウェア・ガーデンの12月定期戦に出場(1979年12月17日)。『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日)の中継クルーもこれに同行した。  藤波はジョニー・リベラをジャーマン・スープレックス・ホールドで下しWWEジュニアヘビー級王座を防衛。坂口&長州のNWAノースアメリカン・タッグ王者チームはアレン・コージ(バッドニュース・アレン)&ジョージョー・アンドリュース組を退け同王座防衛に成功した。やや蛇足になるが、ハルク・ホーガンに改名したばかりのハルク・ホーガンもこの日、若手ヒールとしてガーデン定期戦にデビュー。テッド・デビアスを一蹴した。  猪木が王座を返上したため、この時点でWWEヘビー級王座は“空位”になっていたはずだが、ニューヨークではバックランド対ボビー・ダンカンのテキサス・デスマッチが同大会のメインイベントとしてすでに発表されていた。  猪木はこの日、WWE世界マーシャルアール王者としてグレート・ハッサン(アイアン・シーク)と同王座防衛戦をおこなった。世界マーシャルアーツ王座とは、モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦の功績を称え、前年(1978年)12月、ビンス・マクマホン・シニアが猪木にプレゼントした“ニューヨーク仕様”のチャンピオンベルトだった。  日本人記者団の取材に対し、ビンス・シニアは「ミスター猪木はマーシャルアール王座の防衛戦をおこなう」とだけ答えた。結果的にガーデンのリングではバックランド対猪木のタイトルマッチは実現せず、日本のマスコミは同夜のバックランド対ダンカンの試合を“王座決定戦”と報じた。  たしかに、バックランドはチャンピオンベルトを腰に巻かずにリングに上がってきた。ベルトを大切そうに抱えた新間寿WWE会長(新日本プロレス営業本部長=当時)がリングのまんなかに立っていた。リング・アナウンサーのハワード・フィンケルは、この試合を“王座決定戦”ではなくテキサス・デスマッチとだけコールした。  ニューヨークの観客にとって、バックランド対ダンカンのテキサス・デスマッチは11月定期戦でおこなわれた同一カード(ノーコンテスト裁定)の再戦だった。  バックランドがダンカンを下し、チャンピオンベルトを腰に巻いた。その日、“異変”に気づいた観客はほとんどいなかった。(つづく)
斎藤文彦

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