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人は誰でも「岡村ちゃんと私」を持っている【樋口毅宏のサブカルコラム厳選集】

―[樋口毅宏]―
さらば雑司ヶ谷』『タモリ論』などのヒット作で知られ、最新刊『ドルフィン・ソングを救え!』も好調な小説家・樋口毅宏氏。そんな樋口氏がさまざまな媒体に寄稿してきたサブカルコラムを厳選収録した『さよなら小沢健二』が好評発売中。本書の発売を記念して傑作テキストを特別公開いたします!(当コラムは『ユリイカ』(青土社)2013年7月増刊号に掲載されたものです)  人は誰でも、自分だけの「岡村ちゃんと私」を持っている。必ず。  僕の「岡村ちゃんと私」はこんな話です。  一九七一年生まれの僕は中学生のとき、渡辺美里が大好きでした。彼女のファーストアルバム『eyes』とセカンドアルバム『Lovin’You』に、当時すでに僕の中ではビッグネームの大江千里や小室哲哉に混じって、岡村靖幸の名前を見つけました。 「この人は誰なんだろう。美里の『GROWIN UP』や『LONG NIGHT』に『19歳の秘かな欲望』、アルバムタイトル曲の『Lovin’You』など、どれも最高にカッコいい曲は、みんなこの人が作曲しているじゃないか」  その謎が解ける日はすぐに来ました。僕が中学三年生の夏、(渡辺美里がその後二〇年続く西武球場ライブを初めて開催した)八六年末に、岡村靖幸のライブを初めて観ました。場所は日本武道館。TBSラジオの開局三五周年記念ライブとして、白井貴子&Crazy Boys、岡村靖幸、渡辺美里&TMネットワークというメンツ。観覧のチケットが当選したオーディエンスのお目当ては、当時人気絶頂だった美里がTMと一緒に歌うという、ここでしか見られないステージでした。岡村靖幸の歌は、デビューシングル『Out of Blue』だけ知っていました。美里がレギュラーでDJを担当していたTBSラジオ『スーパーギャング』や、TBSアナウンサー松宮一彦がDJを担当する『SURF&SNOW』で、何度も掛けていたからです。岡村靖幸のライブは三〇分以上やったと思います。しかしそれは痛々しいデビューライブでした。一曲目の『Out of Blue』こそ観客は立ち上がって観ていましたが、二曲目以降は座り出し、曲が進むにつれ席を離れ、やがてブーイングめいた声が上がりました。早く美里とTMを出せ!というアピールでした。翌週のラジオで美里は、オーディエンスの態度に対して猛烈に怒っていたことを覚えています。けれどもその後、岡村靖幸は瞬く間にスターの階段を駆け上がっていきました。

岡村靖幸のセカンド・アルバム『DATE』(ソニー・ミュージックダイレクト)

 個人的には、セカンドアルバム『DATE』から、「岡村靖幸」は「岡村ちゃん」になったと思っています。『DATE』は発売日に買ったはずです。一曲目の『19(nineteen)』が掛かった瞬間、「あ、ジョージ・マイケルの『FAITH』だ」と叫びました。『DATE』に収録されているシングル『Super Girl』がアニメ『シティ・ハンター』のエンディング・テーマに起用されたり、シングル『だいすき』がCMに使われたりして、世間的にも認知度が高まっていきました。そしてサードアルバム『靖幸』がオリコン初登場四位にランクイン。半年後にリリースしたベストアルバム『早熟』が三位(僕が持っているのはもちろん初回限定盤です)。最高傑作と呼び声高い『家庭教師』もオリコンベストテン内と、岡村ちゃんは順風満帆でした。当時はテレビにもよく出ていましたし(テレビ東京が月一回放送していた『eZ』をすべてビデオに録画しています)、まだ判型の大きかった『ロッキング・オン・ジャパン』の表紙を初めて飾ったのもこの頃です。僕は高校生で、まわりの女の子たちも普通に岡村ちゃんを聴いていました。  しかし一九九〇年の『家庭教師』から九五年に『禁じられた生きがい』をリリースするまでの、なんと長く感じられたことか。僕はもう社会人になっていました。『禁じられた生きがい』は五年ぶりのアルバムにもかかわらず、九曲中二曲が数年前の既発シングル、しかも一曲はイントロ。なのにスタジオのクレジットはミックスも含めると十五個も載っているという、どう考えても「どぉなっちゃってんだよ」のアルバムでした。「青年14歳」など、明らかに仮歌詞なんだけど、僕はけっこう好きです。  そして岡村ちゃんのデビューライブ以来、僕は一〇年ぶりにその雄姿を目撃することになります。九六年の武道館だったと思います。当時僕は『ニャン2倶楽部』というマニア向けエロ本の編集者として働いていました。その雑誌のレイアウトをしていたデザイナーが玉手さんという人で、その人はなんと、岡村ちゃんが高校を卒業して、初めて上京したときに一緒に住んでいた人だったのです。ちなみに玉手さんは男です。もちろんゲイではありません。年齢はみうらじゅんさんと同じぐらいです。というのも、みうらさんと武蔵野美術大学の同級生で、ロックバンド「大島渚」のキーボードを担当していました。「イカ天」にも出演しています(いまウィキペディアで確認したら玉手さんの名前がないじゃないですか。どなたか修正をお願いします)。玉手さんとよく岡村ちゃんの話をしました。ちょうど岡村ちゃんが長期不在の時期で、どこに雲隠れしているのだろうと世間で囁かれていた頃でした。渋谷のインフォスタワーのそばにある自宅兼仕事場のマンションに玉手さんは住んでいました。そこによく通っていたのですが、あるとき、玉手さんがニヤニヤして、「岡村、きょう来てますよ」と言うのです。驚く僕が忍び足で隣の部屋を覗くと、ソファで横になって、爆睡している岡村ちゃんがいました。携帯電話は当時から普及していたものの、カメラの機能は新型のみで、僕は「岡村爆睡」の決定的瞬間を撮影することができませんでした。今も悔やんでいます。仕事場に戻ると、玉手さんは薄笑いを浮かべていました。 「あいつ、家が散らかってて、うちに洗濯と、風呂に入るためにちょくちょく寝泊まりに来るんですよ」  そんな関係から岡村ちゃんの武道館にお誘い頂いたところ、一階正面のものすごくいい席でした。アンコールも含めて二時間半、招待席なのに立ちっぱなし踊りっぱなし歌いっぱなしで、心ゆくまで愉しみました。岡村ちゃんのライブって、予習がまったく不要なんですよね。デビューしたときからのファンとはいえ、正直なところ聴いていない時期もありました。でもだからといってライブの日が近づいてきても、焦ってアルバムを聴き直す必要はないのです。完全に、自分の中に刷り込まれているから。とはいえ仕事中は掛けられません。ムリ。文章がまったく書けなくなります。単なるBGMにならずに、原稿用紙の中に入ってきちゃうのです。この感じ、わかってもらえるでしょうか。  話が逸れました。武道館のライブの後、楽屋へと連れていってもらいました。僕の数人前には、名曲『愛の才能』を楽曲提供してもらった川本真琴がいました。楽屋に入ると、そこには上半身裸で長椅子に横たわり、マッサージをしてもらっている岡村ちゃんがいました。当時めちゃくちゃ太っていた岡村ちゃんのその姿はまるで波打ち際に打ち上げられたトド。あるいはセイウチ。いや、ごめんなさい。ホントそんな感じでした。 「あー玉手さん、こんにちは」 「岡村良かったぞ。こちらは前に話しただろう、樋口さん」 「こ、こ、こんばんは」  これが岡村ちゃんとの初対面です。何を話したか、覚えていません。その夜は玉手さんと、一緒にライブに行ったアシスタントの後藤さんと、朝まで全曲岡村ちゃん括りでカラオケをしました。その後、玉手さんから、「岡村がこんなことを言っているんですけど……」と仰天プランがありましたが、あれは何だったのでしょう。ここで書くまでのことはないですし、実現しませんでした。僕はその後、雑誌も変わり、玉手さんと会う機会もなくなりました。  そしてあれは二〇〇四年か五年でしたか。地下鉄赤坂駅の階段を上がると、向こうから偶然、自転車に乗った岡村ちゃんと遭遇しました。真っ昼間、なぜかニコニコとスマイル決めている岡村ちゃんと会うなんて、文字通りの白昼夢でした。  さらに時は流れて、二〇〇九年、僕は出版社を辞めて作家になっていました。自宅で『日本のセックス』という小説を執筆していたときのことです。主人公の女性を慕う、年下の男を脇役に配置していたのですが、彼がバーでカルアミルクを注文しました。その瞬間、年下の男の名前は「岡村」に変更になりました。書いていた僕も驚きました。さらに三年後の二〇一二年、浅草キッドの水道橋博士から連絡がありました。博士は以前から、一面識もない僕の本をラジオや雑誌で何度もプッシュしてくれるなど、一方ならぬお世話になっていました。かといって普段お会いすることはありません。あちらはテレビやラジオを舞台に活躍する芸人であり、僕は家に引きこもって仕事をする作家ですから。その博士からいきなり電話があって、「樋口さん、岡村さんが僕のファンで、今度『TV Bros.』で対談することになったからウチまで来ません?」。僕に拒否権はないでしょ! 当日、僕は二〇〇三年のフレッシュボーイツアーのTシャツを着て伺いました。高円寺の博士の自宅地下、噂に聞く書庫は、つかこうへいやプロレス関連の書籍など、僕好みの本がそれこそ数千冊、きちんと本棚に収められていました。ここなら一ヶ月ぐらい監禁されても苦じゃないなと思いました。岡村ちゃんと博士の対談を、遠巻きから見学させてもらった後、博士は僕の本を何冊も岡村ちゃんに手渡してくれました。対談を終えると、近所の焼き鳥屋で、博士と僕と岡村ちゃんと文藝春秋のサブカル番長の目崎さん、岡村ちゃんの事務所の社長の近藤さん、佐竹チョイナチョイナさんで飲みました。僕の目の前に岡村ちゃんが座っていました。なぜでしょう、僕はいつかこんな日が来ると思っていました。その夜、岡村ちゃんはアルコールを一滴も口にしませんでした。僕は岡村ちゃんに質問しました。どうしても訊きたいことがあったのです。 「岡村さん、いろいろあって、長い期間不在になって、普通のミュージシャンだったらとっくに消えていますよね。どうして岡村さんのファンはこんなに待ってくれるのだと思いますか」  我ながらいい質問です。だけどごめんなさい。緊張しているやら酔っ払っているやらで、岡村ちゃんの返答をまるっきり覚えていないのです。  そしてその年の初夏、また博士からお誘いを受けました。 「樋口さん、『週刊現代』のインタビューで、旅行したい場所のひとつに、高尾山って答えていましたよね。行きましょうよ、岡村さんと」。だから僕に拒否権はないって! 当日、早起きできない体質の僕は緊張もあって、一睡もしないまま高尾山に登ることになりました。博士と長男の武くんは何度も登っているということで、知る人ぞ知る、山登りを堪能できるコースをガイドしてくれました。行きの車の中で、博士はこう言っていました。 「岡村さんと六本木で飲んだって言ってもめずらしくないでしょう。でも一緒に高尾山に登ったって言ったらみんな驚くじゃない。それに岡村さんには、夜以外の時間を知ってほしいんですよね……」  博士優しいな、思いやりがあるなと思ったのですが、それは完全夜型の生活を送っている僕にも向けて言っていたんですよね。博士の優しさが沁みます。何とか頂上に辿りついた僕たち一行は生ビールで乾杯しましたが、この日も岡村ちゃんはアルコールを口にしませんでした。Tシャツとジーンズのラフな格好の岡村ちゃんに、僕はこんなことを話しました。 「音楽不況でCDが売れないでしょうけど、出版の世界も同じで、本が全然売れないんです。いま、作家は二種類しかいない。東野圭吾とその他だって言われているんです」  岡村ちゃんはこう訊いてきました。 「それは物理的な面でですか? それとも比喩ですか?」  本当はこの日の登山は色々あったのですが、ちょっと書けないことも幾つかあります。いつか博士か岡村ちゃんの口から明かされるといいなと思います。  一〇月には渋谷AXでライブを観ました。チケットが入手できず、先述の目崎さんを通してチケットをお願いしました。挙げ句、終演後は楽屋までお邪魔しました。三時間という長丁場のライブの後にもかかわらず、岡村ちゃんは私服に着替えて、びしっと立っていました。打ち上げられたトドは、もうどこにもいませんでした。

岡村靖幸の11年半ぶりのオリジナルアルバム『幸福』(SPACE SHOWER MUSIC)が好評発売中!

 以上、徒然なるままにしたためました、樋口毅宏の「岡村ちゃんと私」でした。全体的になんか淡々と書いちゃった。好きすぎるとどう書いたらいいかわからなくなりますね。去年僕は岡村ちゃんの歌詞がまんま引用される小説を書きました。それが世に出るのはいつのことかわかりませんが、僕自身、とても楽しみにしています。人はみな、自分の「岡村ちゃんと私」を持っています。次はあなたの「岡村ちゃんと私」を聞かせて下さい。

樋口毅宏の“愛”溢れるコラム集『さよなら小沢健二』(扶桑社)は好評発売中!

樋口毅宏●‘71年、東京都生まれ。’09年に『さらば雑司ヶ谷』で作家デビュー。新刊『ドルフィン・ソングを救え!』(マガジンハウス)、サブカルコラム集『さよなら小沢健二』(扶桑社)が発売中。そのほか著書に『日本のセックス』『二十五の瞳』『愛される資格』など話題作多数。なかでも『タモリ論』は大ヒットに。
―[樋口毅宏]―
さよなら小沢健二

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