エリック・ビショフ=ビンス・マクマホンになれなかった男――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第319回(1999年編)
元プロレスラーではないビショフ副社長は、じつは元アナウンサーだった。生まれて初めてプロレスの実況アナウンサーの仕事をしたのは崩壊寸前のAWAのTVショーだった。AWAが消滅したあとはコネクションのコネクションをたどってWCWに再就職した。アナウンサー時代にはWWEのオーディションを受けて“不採用”になったこともあった。
そのときのことをおそらくおぼえていたのだろう。ホンモノのビンスは、ビショフの名がメディアに取り上げられるたびに「あぁ、ビショップくんね」とわざとラストネームの発音をまちがえたりしてみせた。
それは根本的には借りものだったとしても、泡沫(うたかた)のパワーを手に入れたビショフWCW副社長はWWEに対する総攻撃を開始した。
1994年6月、ハルク・ホーガンがWCWと専属契約を交わした。同年12月、“マッチョマン”ランディ・サベージもWWEからWCWに電撃移籍。
1995年9月にはWWEの看板TV番組“マンデー・ナイト・ロウ”(その後、番組名を“ロウ・イズ・ウォー”に改題)に対抗し、同曜日・同時間帯に裏番組で全米生中継番組“マンデー・ナイトロ”をスタートさせた。
WWEの主役クラスだったディーゼル(ケビン・ナッシュ)、レーザー・ラモン(スコット・ホール)を引き抜いた。ロディ・パイパー、“ミスター・パーフェクト”カート・ヘニング、“ミリオンダラー・マン”テッド・デビアス、リック・ルードら大物を次から次へとターナー・マネーで補強していった。
ビショフ副社長にとって、プロレスラーの商品価値の基準は(1)WWEのリングで活躍した経験があることと(2)一般的知名度の2点だけだった。
突然の更迭の理由は“ナイトロ”の番組視聴率の急激な落ち込み、ハウスショーの興行収益の急下落、そして団体のランニングコストの大幅な削減プランとされた。
ビショフ副社長は、“NBAの問題児”デニス・ロッドマンのゲスト出演や伝説のロックバンド、KISSとのコラボレーション企画が“ナイトロ”の視聴率を動かすものととらえていたが、プロレスファンはこういう発想にそっぽを向いた。
じつはメジャー団体WCWの副社長は――デトロイト育ちであるにもかかわらず――“アラビアの怪人”ザ・シークとアイアン・シークの区別がつかないくらいプロレス音痴だった。ビンスになれなかった男は“殉職シーン”も撮らずにいきなりテレビの画面から消えた。(つづく)
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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