ハイスタ活動休止、ハスキング・ビー解散でピリオドが打たれた90年代「AIR JAM系」を振り返る
知らない人はまったく知らない話だろう。彼らはほとんどテレビやラジオに出なかったし、巨大ホールでのライブはあえて避けていた。しかし、それでも日本中の若者たちが熱狂し、全国のCDショップではインディーズコーナーの作品が貪るように漁られていた。いつしかライブハウスに集う若者たちが“キッズ”と呼ばれ始めた時代。大きなうねりは’90年代末に入ると数万人の勢いとなり、「AIR JAM」というフェスを生み出すまでになる。それは控えめに言っても、時代が生み出した奇跡だった。
’00年の夏。千葉マリンスタジアムでは3回目の「AIRJAM」が開催された。チケットは一瞬で完売し、当日は3万人のキッズが大集結。トリを務めたハイスタの曲に合わせて巨大なサークルモッシュがいくつも出現する、そこにはまさに、奇跡的な祝祭の光景があった。キッズはもちろんバンドマンたちも夢の余韻を引きずるように浮かれていた黄金時代。だが、同時に、静かに世代交代の足音は忍び寄っていたのだった。
まず、この「AIRJAM」を終えた後にハイスタが活動休止に入る。後続のバンドは次々とメジャーに進出し、さらなる黄金期に向かっていく者もいたのだが、同時に「今ならパンクやインディーズもカネになる」と目論む業界人が増えていく。玉石混交のインディーズ・レーベルが乱立し、バンドの青田買いも行われる。ハイスタに憧れる若者たちが溢れ返るライブハウスは、気づけば’90年代の先人たちが最も忌避していたバンドブーム時代を彷彿とさせるものになっていた。
また、一見似たような音に思えるが、洋楽をルーツに持たないバンドが増えてきたのも特徴だ。代表的なのは’01年発表のアルバム『メッセージ』が爆発的なセールスを記録した沖縄のモンゴル800、’03年に「ハッピーライフ」でデビューした175Rなど。明快なメッセージとシンプルな楽曲は、より普遍的で老若男女にわかりやすいものだったが、それゆえに消費されるのも早かった。
’90年代初頭に東京のライブハウスから始まったユース・カルチャーは、いつしか爆発的に増えた彼らのフォロワーの手により「青春パンク」へと変化していった。
「周期ってあるからね。’00年代に入ってからはヒップホップのほうが盛り上がったし、アメリカのチャートを見てもロックよりブラック・ミュージックが強くなった」と、ミュージシャンLOW IQ 01は回顧する。
「AIR JAM 2000」から次第にブームが鎮火。バンドの解散も相次いだ
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