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きっかけは東日本大震災。90年代パンクブームが’10年代に復活した理由

 知らない人はまったく知らない話だろう。彼らはほとんどテレビやラジオに出なかったし、巨大ホールでのライブはあえて避けていた。しかし、それでも日本中の若者たちが熱狂し、全国のCDショップではインディーズコーナーの作品が貪るように漁られていた。いつしかライブハウスに集う若者たちが“キッズ”と呼ばれ始めた’90年代。大きなうねりは’90年代末に入ると数万人の勢いとなり、「AIR JAM」というフェスを生み出すまでになる。それは控えめに言っても、時代が生み出した奇跡だった。

東日本大震災を契機に多くのバンドが再結成。爆音は今も鳴り続ける


バンド

写真はイメージです

 ’00年代後半になり、パンクブームは終わった。だが’10年代に入ると、ファンはおろか、当事者たちも想像していなかった新しい動きが起きる。きっかけは東日本大震災だ。3.11直後から、ハイスタのメンバーは再び水面下で顔を合わせ、こんな状況だから再びハイスタを、「AIR JAM」をやるべきではないかと話し合っていた。ただしそれは’12年の計画。しっかり準備期間を設けて、被災地で開催しようという話だった。

 そこに割って入ったのがブラフマンのTOSHI-LOWだ。震災直後から地元の茨城へ、そして東北へと直接物資を運んでいた彼は、「時間がない。今すぐ、今年の夏に『AIR JAM』をやってくれ」とメンバーに直談判。奇跡の再結成を一気呵成に進めていく。「AIR JAMって祭りがあって、中心はもちろんハイスタで俺たちは“その他”扱い。それが悔しかった自分もいたけど。でも当時はそんなこと言ってられなかった。実際にハイスタ見て、ずっと彼らにいてほしかったんだなぁって改めて思ったよ」と本人が語る。

 9月に横浜スタジアムで行われた「AIR JAM2011」で、ハイスタの横山健は「俺たち、日本のために集まったんだ」と語りかけていた。20年前に新しい刺激を求めて始まったユースカルチャーは、大袈裟ではなく東北を照らす希望になっていた。バンドマン自身が家庭を持ったりしながら、それぞれ責任ある大人になっていたことも大きい。多様性をのみ込みながら連帯しようという当時のエネルギーは、復興支援という形になって再び活気づいていく。

 象徴的なのは「東北ライブハウス大作戦」だ。これは、ハイスタやブラフマンなどの専属サウンド・エンジニア・チームから発案された、石巻、大船渡、宮古にライブハウスをつくるという計画。全国のバンドが気軽にツアーで立ち寄れる場所をつくり、地元の活気を取り戻そうとした。各バンドの呼びかけで全国から募金が集まり、翌年には3軒のライブハウスが無事完成。宮古では市長の山本正徳氏もオープンに駆けつけていた。見た目の怖そうなパンクスがボランティアを先導し、行政や市民から歓迎されること。これは震災が生んだハプニングだったが、好きなものは何でも自分たちの手で作るという、’90年代パンクシーン特有のDIY精神でもあった。

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’12年には東北でAIR JAMが開催された

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