更新日:2022年12月14日 01:14
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福島第一原発から8km、帰還住民を待つ浪江町の仮設商店街

2万人を超える住民のうち、帰還者はまだ490人

浪江の町

浪江町の目抜き通りでは、工事関係者以外はほとんど見られなかった。地震で崩れた建物が今も散見される

 福島第一原発から近いところは4kmしか離れていない、福島県双葉郡浪江町。原発事故による放射能汚染で、2011年には全町民に避難指示が出された。2017年3月31日には比較的空間放射線量の低い浪江町東側の避難指示が一部解除されたが、事故から7年がたっても西側の大部分はまだ避難指示が出されたままだ。  震災前約2万1000人あった町の居住人口は現在490人(浪江町による発表。1月31日時点)。避難指示の部分解除に合わせて、JR常磐線が再開して仙台駅から浪江駅まで繋がった。しかし、震災前は賑やかだった駅前の商店街は、地震で損傷した建物が残る閑散とした雰囲気に包まれていた。

国や東電のことを信用しきれない部分も

まちなみまるしぇ

国道6号沿いに開設された仮設商店街、「まち・なみ・まるしぇ」

 そんな状況の中で、原発から8kmの地点に開設されている仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」(2016年10月オープン)が、帰還住民たちの貴重な買い物場所となっている。現在は土産物店や、食堂、コインランドリーなど10店舗が入店。そのうちの一つ、浪江町商工会が運営する土産物店「ミッセなみえ」の代表・金澤文隆さんに話を聞いた。金澤さんは浪江町商工会の事業再開検討委員長を務めている。 「『まるしぇ』のオープンに際して、さまざまな議論が町の中にありました。町は委員会を設立して、施設の開設について議論をしてきました。特にもめたのが、放射線量の人体に対する影響の部分です。町民でも人によって大きく考え方が違います。ですが、それを議論するとどうしてもケンカになってしまいます。  浪江町は東電と国の出す放射線量の数字に翻弄された経緯があります。国や東電が『大丈夫』と言っても、信用しきれない部分があるんです。例えば、議論を行っている間に、町の放射線量が一時的に上昇した日がありました。  結果的には福島第一原発での作業で粉塵が風で飛んできて限定的に上昇しただけだったのですが、震災の時と同じく国や東電から浪江町には何の連絡もありませんでした。このため『浪江町で商業施設をオープンするべきじゃない』という声も相当数ありました。考えはそれぞれ違っても、町に対する帰還意識は誰しも持っています。離れがたい故郷であることはみな同じ。悲しい議論です」

避難指示が解除されたといっても、事業者が戻るのは容易ではない

金澤さん

「ミッセなみえ」の前に立つ金澤さん(中央)。2018年2月から無休で営業している。相馬焼の品揃えは一見の価値あり

 複雑な思いもありながら、金澤さんは「まるしぇ」の運営体制づくりを進めた。現在、「ミッセなみえ」には約20事業者が出店し、B-1グランプリで有名になった「なみえ焼そば」や、独特の青ひび文様が入る相馬焼の食器、服などが並べられている。1日あたり50~100人のお客さんが店を訪れるようになったが、店の開設は簡単ではなかったという。 「入店する事業者を探そうと、震災前から浪江にあった約600の事業者にお知らせを出しましたが、当初手を上げたのは1つだけ。私が一人ひとり避難先にお伺いして、何とか20事業者を集めることができました。国は『避難指示は解除されたから戻ってきていいですよ』と言いますが、そこで商売をするのは簡単なことではありません。  経済の原則から言っても、ニーズがあれば自然に事業所は戻ってきます。復興関連の需要は多いですから、建設関係の事業者は浪江にも戻ってきています。しかし、住民がほとんどいない浪江で、それ以外の商売をすることは容易ではありません」
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買い物の場所としてだけではなく、住民同士の交流の場にも
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