更新日:2018年08月03日 17:00
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オウム真理教は、なにがきっかけで狂気に走ったのか?

信者の事故死が狂気へと走らせた

 ここまでならば、新興宗教団体の黎明期によく見受けられる光景だが、教団は次第に一般社会のルールから逸脱するようになる。そのきっかけが、’88年9月に発生した在家信者の死亡事件だ。  前月に完成したばかりの富士山総本部道場での過酷な修行中に、男性信者が錯乱。麻原から「頭を冷やせ」と指示された村井秀夫らが頭に水をかけているうちに信者は意識不明に陥り、蘇生処置のかいなく死亡してしまったのだ。  事故で済むはずの事態を事件化させたのは、麻原のひと言。当時教団は宗教法人認可を申請中であり、これがご破算になることを恐れた麻原は、信者の死を隠蔽するよう指示したのである。  だが、ウソはさらなるウソを必要とする。この事件処理に疑問を抱いた男性信者が’89年2月に脱会の意思を表明したとき、麻原は決然として、新実智光らに口封じを命令。ここで教団は初めて殺人を実行し、以後はタガが外れたように、教団外部に対しても凶暴性をあらわにしていく。オウム真理教被害者の会を組織していた坂本堤弁護士が、妻子ともども殺害されたのは同年11月のことだ。  ヴァジラヤーナの教義を掲げた教団は、その後着々と重武装化。サティアン内ではサリン、VXガス、自動小銃の製造プラントも稼働し、麻原が予言したハルマゲドンを自己実現すべく、教団の暴走は加速していったのである。 オウム真理教 そして運命の’95年3月20日。通勤ラッシュを狙って散布されたオウムのサリンは、13人を殺害し、6000人以上を負傷させるに至った。この未曽有のテロを起こした麻原は40歳になったばかり。師に従って死刑判決を受けた弟子たちも、多くが30代。教団発足から11年での破滅劇だった――。

週刊SPA!とオウム

 坂本弁護士失踪事件への疑惑を契機として、メディアはオウム真理教に殺到した。本誌が初めて言及した’89年12月6日号では、麻原彰晃と宗教学者の中沢新一が対談し、一連の疑惑を否定する麻原の生の言葉が掲載された。その後、当時のオカルトブームを受けて始まった連載「霊能の秘儀」第27回において、シャクティーパットを取材。麻原が信者に「霊的エネルギー」を注入する様子をルポし、原始仏教を実践する出家教団として取り上げた。
オウム真理教

結果としてオウムのプロパガンダに加担してしまった

’92年4月15日号の特集では、SPA!とオウム真理教との距離がさらに近づく。ロシアに進出し布教活動を行う麻原を取材し、医療品の提供やコンサートを開催する様子を報じた。そして、地下鉄サリン事件後の’95年5月3・10合併号では、上祐史浩と宅八郎の対談が実現。この対談では、上祐をアイドル的に取り上げ、その主張を垂れ流すことに終始した。このように怪しげな教団を無批判に取り上げてしまったことへの自戒の念は、決して消えることはない。
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世間を騒がせたオウム用語
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