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「テロリストの主張は仮に正論だとしても認めない」との態度を示すべきだ/倉山満

「なぜ人を殺してはならないのか」の説明には、必ず穴がある

 人を殺してはいけません。古今東西、どこの社会でも常識だ。
岸田文雄首相の応援演説直前に爆発物を投げ込み、取り押さえられた木村隆二容疑者

4月15日、岸田文雄首相の応援演説直前に爆発物を投げ込み、取り押さえられた木村隆二容疑者のものと思われるSNSには「被選挙権の侵害」「世襲と腐敗」などと綴られている 写真/産経新聞社

 ただし、絶対の正義ではない。「なぜ人を殺してはならないのか」の説明には、必ず穴がある。「いついかなる時も人を殺してはならないのか」と聞かれると、例外だらけだ。  ここで幼稚な人間は「じゃあ、人を殺してもいいではないか」と言い出す。人を殺してはならない完璧な理由を言えない人間を論破した気になって、勝ち誇る。こういうガキンチョは叱り飛ばすしかない。  では、人殺しを辞さない屁理屈屋を、どう叱り飛ばすか。「常識で考えろ」だ。常識とは、相対評価だ。

狂人とは、理性しかない人間のことだ

 一人で、「人を殺してはならない理由」を延々と考え続けて、「理由は無い」との結論になったとしよう。常識がある人間は、その結論を絶対化しない。「人を殺してはならない社会」と「人を殺してもよい社会」のどちらがマシか、と比較する。現状の日本は「人を殺してはならない社会」だ。少なくとも建前として確立している。それが今の日本が「人を殺してもよい社会」になる。どちらがマシかを考える。色々と問題があっても「人を殺してはならない社会」の方がマシと考えるのが普通の人間だが、異常な人間は常識で考えない。理屈だけで考える。  狂人とは、理性が無い人間ではない。理性しかない人間のことだ。  理屈でしかモノを考えられない人間は、「歴史の中での比較」との概念がない。その手合いの人間は、「人を殺してはならない」が人類の多数派になるのに、どれほどの時間がかかったか、歴史を考えたこともないだろうし、知らないだろう。  理屈で考えれば、世の中には已(や)むに已(や)むを得ぬ殺人もあろう。だが、「已むに已むを得ぬ」を誰がどうやって判断するのか。

個人によるテロを許すとは、文明国をやめること

 現代でも「人を殺しても良い」とされる状況はある。たとえば戦争や死刑だ。あるいは正当防衛。いずれも、法に基づいている。国際法では、厳格な条件に従って、戦場での戦闘員の殺人は、免責される。死刑執行を犯罪に問う国は無いし、法で定められた条件で正当防衛による殺人は許容される。それらいずれにも共通しているのは、暴力を政府が独占している。あらゆる個人から暴力を取り上げ、私的制裁を許さない。  この世から人殺しをなくすべきだが、現実には無くならない。だから国家の責任で秩序を守らねばならない。これが歴史から得られた教訓だ。「人を殺してはならない」が建前として成立している国、可能な限り実態が守られている国が、文明国だ。  個人によるテロを許すとは、文明国をやめるということだ。今の文明国と非文明国、どちらがマトモか、考えるまでもない常識だ。これは理屈以前の価値観だ。あらゆる理屈も理性も、何らかの価値観に基づく。
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個人が気に入らない奴を殺して良い社会が素晴らしいか?
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1973年、香川県生まれ。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中から’15年まで、国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務める。現在は、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰。著書に『13歳からの「くにまもり」』など多数。ベストセラー「嘘だらけシリーズ」の最新作『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)が発売中

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