<坪内祐三氏追悼エッセイ>ラスト・ワルツは私に――壹岐真也
あなたとの付き合いは、僕が『en-taxi』の編集を離れたあとにほんとうに楽しくなりました(これはウソだよ、決まってるデショ)。
相撲の東京場所を忘れずにおごってくれました。
全取組が終わると両国橋をスタスタ渡って、袂の蕎麦屋へ流れる(両国駅タワーの評価、聞きそびれたな。アーバンリゾートとか謳っているからさぞかし高価なレストランが入っているのだろう。キンミヤのボトルが置いていないってツボさんは怒るかな)。
取組中に升席で、力士弁当(鶴竜、稀勢の里、豪栄道、いろいろ食べた)、名物の焼き鳥、缶ビールで腹をこさえてはあるのだけど、その古くオーセンティックな日本蕎麦屋でハンバーグ、ナポリタン、焼き鳥、かつ煮など、そして焼酎の一升瓶ボトルをたのむ(そういえば、あなたがサラダの類を註文するのを見たことがなかったな、ポテサラ以外は。麺類は結局たのまないことが多かった)。
そうして、
「あの取組、よかったねぇ」
「あれはダメだよねえ」
と感慨深げに面白げに語りだす今日の取組論。
「でもイキちゃん。いま幕下にいる誰々は観といた方がいいよ」
と、十両から会場に現れた僕をさりげなくたしなめる。
汽車はもう二度と来ないのだ
いくら待ってもむだなのだ
永久に来ないのだ
それを私は知っている
知っていて立ち去れない
(高見順「汽車は二度と来ない」)
坪内さんは、近年、現代詩をまとめて読み直していたそうだ。そんな話、知らなかった。
冨永太郎、尾形亀之助、荒地派への評価など訊いてみたかった。きわめて散文的な有り様を示すことの多かった坪内氏の、詩人たちとの精神のぶつかりかたを近くで目撃したかった。
あなたが亡くなって、驚き、悲嘆にくれて、お弔いに出て、家でボンヤリした。
おまけに僕も道で倒れ何日か入院した。(一晩ICU。それからSCUに4日間……)。
坪内さんに呼ばれたか、と病室で点滴につながれながらおかしくなった。
そんな野暮をする人ではないとわかっている。
だれかのせいにしたかった。笑い話にしたかっただけだ(そんな点滴だらけの瀕死の僕を、「百年の色街 飛田新地」なんて艶っぽい写真集片手に「ヨッ」とお見舞いにきたのは、かつてのツボウチ担当三馬鹿トリオの仲間、S社のUK編集長デシタ)。
今のじぶんを見てニヤニヤ笑う坪内さんに会いたかった。
こんな時笑う人でないのはわかっているけれど。ウケたかった。
亡くなってから、坪内さんは病院にいかない人だった、と奥様に聞いた。
本人は万事万遍抜かりなく、という態度だったけど、そういえば、あれもこれもに無頼派、みたいなところがあった。
そして。こうしてあなたの思い出を文章にかかせていただいているうちに、僕は回復したかもしれません。
ありがとうごぜえやした。
ブンガクは〇ッパみたいに心を酔わせるわ
だけどしゃべってといわれたら断ってネ
そして私のため残しておいてネ
最後のザツダンだけは
(The Drifters『ラスト・ダンスは私に』筆者意訳)
作品とは、その作家の熱量や魂を凝縮させた結晶であり、時間なのである。
(リリー・フランキー『卒業旅行』)
全然、これといって説明できるものは何も無いんですよ
(中原昌也『1994 Red Krayola in Tokyo』)
<文/壹岐真也 撮影/扶桑社写真部>
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