RCサクセションが50周年、忌野清志郎さんが見てきた景色。デビュー、低迷、決別…
2020年、ロックバンド「RCサクセション」はデビュー50周年を迎えた。その記念企画として、忌野清志郎名言集『使ってはいけない言葉』の発売が5月2日に予定されるなど、その人気は衰え知らず。ボーカリスト・忌野清志郎さんが逝去して10年以上が経つ現在でも、彼に憧れる若者は後を絶たない。
この出版も、これまでのファンだけでなく、これからファンになる若い人たちのために残すプロジェクトでもあるそうだ。まさに、時が経っても色褪せない魅力を持つロックスターと言っていいだろう。今回はそんな節目の年に、RCサクセションと忌野清志郎さんの歩んだ道のりを振り返りたい。
1951年4月2日生まれた清志郎さんは、東京都国立で育った。中学校に入学した年に、幼馴染の同級生らと「ザ・クローバー」を結成し、フォークバンドなどのコピーを始める。
高校に入学すると「ザ・クローバー」は自然消滅し、新しいバンドを結成したが、音楽的な志向の違いからそれもすぐに消滅。結局「ザ・クローバー」の元メンバーらと再び集まり、バンドを「RCサクセション」と名付けて本格的な活動を開始する。
1969年、高校3年生のときTBSの音楽番組「ヤング720」に出演し、オリジナル楽曲を披露。同年「東芝カレッジ・ポップス・コンテスト」にも入賞するなど、まさに順風満帆だった。その後大手芸能プロダクションの社長に声をかけられ、契約。美術大学への進学を考えていた清志郎さんは一転、音楽の道へ進むことを決めたそうだ。
1970年『宝くじは買わない』で晴れてレコードデビューし、同年『涙でいっぱい』をリリースしたRCサクセション。しかしセールスは振るわなかった。だが、72年に発表したシングル『ぼくの好きな先生』がスマッシュヒットし、その名前が知られるようになる。
この年はまさにリリースラッシュ。シングル『キミかわいいね』、『三番目に大事なもの』、アルバム『初期のRCサクセション』、『楽しい夕に』などを立て続けに発表。しかし、当時は軽やかな耳ざわりの日本語ロックが勢いをつけており、RCサクセションのサウンドは市場のニーズに合致しておらず、再び売り上げが伸び悩むことに。
悪い流れは続き、1975年には事務所のトラブルに巻き込まれほぼ仕事がない状態になってしまうが、翌年には3年ぶりのシングル『スローバラード』を発表。いまや代表曲のひとつである同曲も、発売当初は話題にもならず数ヶ月で廃盤になった。この頃、エレキ楽器を導入してサウンドを一変させるなど悩ましい試行錯誤が続いていたが、悩みは重なるようで、77年にはザ・クローバーズ時代から共に歩んで来たメンバーが脱退してしまう。
低迷期に突入したRCサクセションだったが、なんとかバンドを立て直すことに成功する。1980年には、以前からサポートメンバーとして活動を支えてきたギタリスト・Gee2woを正式に迎え入れるなどし、新たな編成で再出発することとなった。
そして同年、後に名曲と称された『雨上がりの夜空に』、『トランジスタ・ラジオ』を満を持して発表し、大ヒット。82年には坂本龍一とタッグを組み、『い・け・な・いルージュマジック』をリリース。同曲は資生堂のキャンペーンソングにも使われ、オリコン週間シングルチャート1位を獲得。
たちまちRCサクセションは“ライブの王様”と称され、日本のロックシーンのアイコン的存在になり、彼のファッションやメイクを真似る若いフォロワーが生まれた。
幼な馴染みたちと始めた「RCサクセション」は、瞬く間に評価され音楽業界へ
レコードデビューを果たし名が知られたもののセールスは伸びず、苦境時代へ突入
バンドの立て直しに成功! 新メンバーを迎え“KING OF ROCK”と呼ばれるように
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