スポーツ

田尾安志、最後まで埋まらなかった三木谷オーナーとの溝「口を出すなら直接言ってほしかった」

志半ばでその役目を終えることになった新球団の初代監督

田尾安志

’05年9月28日、シーズン最終戦を終え、楽天ナインに胴上げされる田尾監督。ファンからも退任を惜しむ声が飛んだ

「『わかりました。でも勝ったらどうするんですか?』と聞いたら、続投だと言われました。その薄っぺらさが頭にきたのでオーナーに直接電話したんです。だけど、まったく出ない。仕方ないので留守電にこう入れました。『ひとつ勝った負けたで球団の方針が変わるのか。自分は金儲けしたくて来たんじゃない。野球界のために、このチームは成功しないといけない。そのために選手やコーチを集めてきたんだから、考え方を変えないと強くなれない』。この日から、一度も電話は繫がっていません」  そして9月25日の朝、球団は田尾に監督解任を通告した。ホーム最終戦の前だった。 「オーナーサイドから10月18日に会いたいとようやく連絡が来ました。僕が功労金を断ったためです。ひとりでケンカしに行ったんですけど、向こうはオーナーと島田社長、米田代表、井上相談役の4人。大の大人がひとりで来られないのかと思いましたね。最初に謝罪から入ってきたので、振り上げた拳を下ろすしかなかった。ただ最後に、『この組織のままじゃ誰が監督でも強くなりませんよ』とはっきり伝えました」  こうして、半世紀ぶりに誕生した新球団の初代監督は、志半ばでその役目を終えることになった。

「与えられた戦力で毎日できるだけのことをやった」

 怒りは憎しみとなって人を蝕み、憎しみは苦痛となって人を変える。だが田尾が「あの環境がさほど苦にならなかったのは自信になった」と語るように、決して苦痛ではなかった。それは「与えられた戦力を駆使して毎日できるだけのことをやった」という自負があったからだ。  そしてもうひとつ、時代の寵児ともてはやされるIT社長だろうと一歩も引くことなく、己の信念を貫き通したからにほかならない。「自分は何も間違ってはいない。やれることはやりきった」という思いがあったからこそ、こうして今でも胸を張って当時を語れるのではないか――。  不本意な解任劇だったが現在は「いい経験になった」と述懐する田尾。ひとえに、田尾の姿勢が決してブレず、誰にも迎合せず、安易に群れなかったからだろう。ひとりの男が開拓者として道を切り開く上で、一番大切なことを田尾の生き様が教えてくれた気がする。 【田尾安志】 ’54年、大阪府出身。同志社大学を経て’75年にドラフト1位で中日ドラゴンズに入団すると、俊足巧打のリードオフマンとして新人王を獲得。’82年には打率.350を記録し、同年から3年連続最多安打に。’85年に西武、’87年に阪神に移籍し、’91年限りで引退 取材・文/松永多佳倫 写真/産経新聞社
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

92歳、広岡達朗の正体92歳、広岡達朗の正体

嫌われた“球界の最長老”が遺したかったものとは――。


確執と信念 スジを通した男たち確執と信念 スジを通した男たち

昭和のプロ野球界を彩った男たちの“信念”と“生き様”を追った渾身の1冊

1
2
3
おすすめ記事
ハッシュタグ