更新日:2022年03月26日 09:18
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チェチェン戦争から一貫して変わらない”プーチンの暴走”。世界は気づくのが遅すぎた

民間人を巻き込む、「第二次世界大戦型」の凄惨な戦争

チェチェン西部に展開していたロシア軍兵士。撮影の10日後、付近の村民約300人を殺害した

チェチェン西部に展開していたロシア軍兵士。撮影の10日後、付近の村民約300人を殺害した

 プーチンが始めた第二次チェチェン戦争は、第一次戦争とはまったく様相を異にしていた。ピンポイントで武装勢力の拠点を叩く一方、点よりも面の攻撃が主体であり、作戦地域内にあるものを全滅させるというやり方を実行していった。そのため、犠牲者の大部分は民間人だった。  この様子を日本の軍事専門家に話したところ、彼は「第二次世界大戦型の戦争ですね」と話していた。今まさにウクライナでは大量の軍隊で攻め入る第二次大戦型の軍事行動が行われており、チェチェン戦争の再来を思わせる。  ロシアに占領されたチェチェンでは一般市民も立ち上がり、パルチザン戦で長期間抵抗した。そのためロシア軍は掃討作戦を開始し、町や村を包囲すると一軒一軒の民家に押し入った。大量の住民を拘束して「パルチザンか否か」を調べる選別収容所に送り、凄惨な拷問を加えていた。  その人が幸運ならば拷問されても生き残り、親族が多額の金を払って釈放されたが、多くの人は行方不明のままである。その後も絶望的なパルチザン戦は続いた。2009年にロシア当局が「掃討作戦は完全に終了した」と宣言するまで、実に10年間を要したのである。 その間、チェチェンではロシアの息のかかった傀儡政権が樹立され、強権支配を継続している。

プーチン政権を批判していた女性記者の殺害

 民間アパート連続爆破テロを口実とした第二次チェチェン戦争でプーチン政権が真っ先に実行したのは「マスコミを抑えること」だった。開戦後間もない1999年11月4日、ソ連時代の反体制知識人の象徴だった故アンドレイ・サハロフ教授の妻エレーナ・ボンネルは、米国上院外交委員会でこう語った。 「(軍や政権首脳は)民主主義や言論の自由のせいで第一次チェチェン戦争は負けたと思っている。今度の戦争はその復讐のためである」  彼女が指摘したとおりの象徴的な事件が起きた。2000年5月11日、ロシア独立テレビを中核とするメディアグループ本部を覆面のロシア治安部隊が襲い、自動小銃をもった兵士らが家宅捜索した。  ロシア政府は、戦争報道を積極的にしていた独立テレビ局の筆頭株主を脱税容疑で強制捜査したり、さまざまな圧力を加えたりし始めた。その抑圧は、戦争報道をするメディアやジャーナリストだけでなく、地方自治体幹部の汚職を追及する記者などを含め、プーチン政権下では数十人の記者たちが殺害されている。  例えば、第二次チェチェン戦争の実態を取材しプーチン政権を批判していた『ノーヴァヤ・ガゼー』紙のアンナ・ポリトコフスカヤ記者の暗殺だ。2006年10月7日、自宅アパートのエレベーター内で彼女の射殺死体(4発の銃弾を浴びていた)が発見された。  彼女はそれ以前にも、取材に向かう飛行機内で飲んだ紅茶に毒物を盛られたが、このときは一命をとりとめている。彼女身体が回復してまもなく、筆者がモスクワでインタビューした(『月刊現代』2004年11月号)中から、印象に残った部分を紹介する。 「(チェチェンでの掃討作戦で)ロジータという老女は、ある日突然逮捕されて深さ1.2メートルの穴牢に押し込められました。上部には丸太が置かれているので身体を伸ばせず、12日間座ったままの生活を余儀なくされました」  彼女はロシア軍に拘束され連行された経験についても語った。 「尋問の最も汚らわしい部分はお話できません。口にするのもおぞましい。しかし、それまで様々な人から聞き取りした、第45空挺連隊(ポリトコフスカヤ記者を拘束した部隊)で行われている拷問や暴挙は、嘘ではなかったと確信しました」  殺される直前に彼女は、チェチェン人に対する拷問についての記事掲載を予定しており、関連ビデオ映像も公開する準備を進めていたという。
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「爆弾テロはロシアの自作自演」と発表していたFSB元スパイ・リトビネンコの暗殺
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ノンフィクション・ライター。週刊誌記者を経てフリーに。ロシア・チェチェン戦争を16回現地取材し『ロシア・チェチェン戦争の628日~ウクライナ侵攻の原点に迫る』(清談社パブリコ・第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞作品の増補改訂版)を上梓。ほかに『増補版プーチン政権の闇』(高文研)、『不当逮捕~築地警察交通取締まりの罠』(同時代社)など

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プーチン政権の闇―チェチェン戦争/独裁/要人暗殺

ウクライナ侵攻以前から、プーチン政権の 危険性を告発していたジャーナリストの著書

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