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チェチェン戦争から一貫して変わらない”プーチンの暴走”。世界は気づくのが遅すぎた

プーチンの暴走の始まりは、1999年の連続爆弾テロから

 KGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチンは、後継機関のFSB(ロシア連保保安庁)長官としてエリツィン前大統領を支えており、1999年8月16日に首相の座に就く。  直後の8月31日から、連続爆弾テロがロシア各地で発生。民間人が住む集合住宅が主なテロの標的であり、合計で約300人の犠牲者を出した。特にモスクワでは2か所の大規模マンションが爆破され、ロシア社会に強い衝撃を与えた。  ここから一転してロシア社会の空気が変わり、プーチニズムが暴走する。  現場検証も進まないうちから、プーチンらは「連続爆弾テロはチェチェン武装勢力の仕業」と断定。チェチェンに対して大規模な軍事侵攻に踏み切り、第二次チェチェン戦争が始まった。ロシアの世論は大喝采して、プーチン首相(翌2000年に大統領就任)を支持したのである。  連続爆破テロがロシア市民を恐怖のどん底に突き落としていたとき、不気味な爆弾テロ未遂事件が起きた。その4か月後の2000年1月18日付『モスクワタイムズ』など複数の記事によれば、次のような不審なできごとだった。  1999年9月22日、モスクワから南東に位置するリャザン市内のアパート地階で、不審車に男女3人が乗っているのを見た住民が警察に通報した。  なぜ住民が不審に思ったかと言えば、その車のナンバープレート下二桁には紙が貼られ、地元リャザンナンバーが書かれていたのだが、紙から透けて見えていたのがモスクワナンバーだったからだ。  駆けつけた警察官の爆弾処理班は探知機で時限爆弾を発見し、間一髪で民間アパート爆弾テロを阻止できたのである。

テロは戦争を仕掛けたかったロシア政府の自作自演?

チェチェンの少年。プーチン大統領が起こした第二次チェチェン戦争は第一次を上回る残虐性があった(首都グローズヌイ)

チェチェンの少年。プーチン大統領が起こした第二次チェチェン戦争は第一次を上回る残虐性があった(首都グローズヌイ)

 一夜明けた9月23日、ロシア軍は「連続テロを仕掛けたのはチェチェンだ」として空爆を開始。第二次チェチェン戦争の火ぶたは切って落とされた。  翌9月24日、プーチンの後継としてFSB長官に就任したばかりのパトルーシェフは、2日前にリャザン市で起きたテロ未遂事件について次のように発表した。 「訓練のために仕掛けた爆弾であり、火薬のように見える袋詰めの白い粉は砂糖だった。警察の爆薬探知機は故障していた」  このパトルーシェフは、現在安全保障会議書記でプーチン大統領の側近中の側近である。このときから『テロはプーチン政権の自作自演ではないのか』という疑惑が指摘され続けている。  テロから10か月後に筆者がモスクワの爆発現場を訪ねると、すでに整地されており、犠牲者の記念碑が建てられていた。  記念碑の前に、親族2人を爆弾テロで失ったロシア軍の退役軍人が立っていた。「これはチェチェン人たちの仕業ではない。国家にしかできないことだ。私は職業軍人で爆発物取り扱いの経験もあるから分かる」と彼が話したのが今でも印象に残っている。 「テロはロシア政府の自作自演」と断言した人もいる。プーチンの政敵だった政商ボリス・ベレゾフスキーの暗殺計画を告発してイギリスに亡命した、FSB中佐のアレクサンドル・リトビネンコだ。
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民間人を巻き込む、「第二次世界大戦型」の凄惨な戦争
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プーチン政権の闇―チェチェン戦争/独裁/要人暗殺

ウクライナ侵攻以前から、プーチン政権の 危険性を告発していたジャーナリストの著書

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