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限界に挑むこと。それはおっさんには永久にできない、若者だけの特権だ

【おっさんは二度死ぬ 2ndシーズン】

限界を超えて

 限界の先に何があるのだろうか。ふとそんなことを思うことがある。そしてその限界の先を見ようとする挑戦は、若かりし頃の特権でもあるように思うのだ。おっさんは限界に挑戦したりなんかしないのだ。  通勤経路の途中に大きな交差点がある。いつも判を押したように同じ時間に家を出て自転車をこぎ、同じ経路で通勤するので、いつも同じ信号に同じだけひっかかる。そして同じように規則正しくランニングをしている若者と一緒になる。  よくもまあ、毎日、飽きもせずにランニングできるなあと彼のことを思うけど、彼もまた、同じように飽きもせずに同じように通勤するなあと思っているかもしれない。  もちろん、お互いに会話をするわけではなく、お互いに存在を認知しているだけなのだけど、ある時、唐突に会話する機会がやってきた。  いつものように二人で並んで信号待ちをしていると、突如としてスコールのような雨が降り注いだ。南の島かと思うほどの激しいそれはとても耐えられるものではなく、こりゃたまらんと二人とも近くの屋根付きバス停に避難した。 「いやはやまいったね」 「まいりましたね」  濡れた顔を袖で拭いながらそんな言葉を交わす。

若者との何気ない会話に昔を思い出した

「それにしてもいつもランニング頑張るね」  僕の言葉に若者は満面の笑みで答えた。 「いや、いま自己ベストを更新しようとトレーニングを頑張っているんです」  詳細は語らなかったが、若者は何らかの陸上競技をやっており、その記録を更新しようと頑張っているようなのだ。 「がんばるねえ」 「限界に挑戦するのって楽しいじゃないですか」  スコールのような雨はすぐにやみ、イレギュラーな雨宿りはすぐに終わってしまった。軽い言葉を交わし、またお互いがそれぞれのルーティンへ戻っていく。すこしだけズレた時間で通勤を続ける。それでも「限界に挑戦するのが楽しい」という彼の言葉がずっと心に引っかかっていた。  おそらく、限界に挑戦することは若者の特権なのだ。こと、肉体的な面に限って言えば間違いなく若者だけのものだと言い切れる。例えば、おっさんである僕が、トレーニングにトレーニングを重ねて、マラソンのタイムを縮めたとしても、それはその時の限界を突破することであって、僕自身の限界ではない。  おそらく僕自身の限界はもっと若くて気力、体力ともに充実していた時期にあって、おそらくそこでトレーニングした時のタイムが僕の限界なのだろう。それをおっさんになって突破することはやはり現実的ではないので、純粋に限界を突破することはおっさんになればなれるほど難しいのだ。  限界に挑戦することは若者の特権。そう考えると、自分も若かりし頃にそのような限界に挑戦したことがあったことを思いだした。
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僕はその頃、50メートル走の記録をいかに更新できるかに挑戦していた
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テキストサイト管理人。初代管理サイト「Numeri」で発表した悪質業者や援助交際女子高生と対峙する「対決シリーズ」が話題となり、以降さまざまな媒体に寄稿。発表する記事のほとんどで伝説的バズを生み出す。本連載と同名の処女作「おっさんは二度死ぬ」(扶桑社刊)が発売中。3月28日に、自身の文章術を綴った「文章で伝えるときにいちばん大切なものは、感情である 読みたくなる文章の書き方29の掟(アスコム)」が発売。twitter(@pato_numeri

pato「おっさんは二度死ぬ」

“全てのおっさんは、いつか二度死ぬ。それは避けようのないことだ"――


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