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小山田圭吾のフジロック出演に、賛否の嵐。いじめ騒動から1年では“早い”のか

いじめに対するNOを示すための政治判断

   まずオリンピックとパラリンピックについて。組織委員会の高橋治之元理事に関する金銭授受問題が取り沙汰されている件からも、実態は利権まみれなのは衆目の一致するところです。いまさら五輪精神だなんだと持ち出されたところで、一般市民は冷めきった目でオリンピックを見ています。  しかし、むしろ本質がどす黒いからこそ建前上はより一層の清潔さが求められるわけですね。だから小山田氏の辞任はやむを得なかったのです。  たとえ25年以上前の出来事で若気の至りだったとしても、世界に向けてNOを示さなければならない。弱者への暴行や虐待に関与したとされる人物を守ってはならない。日本のプライドにかけて目に見える形で表明しなければならなかったのです。  ゆえに、これはキャンセルカルチャーに象徴されるアクティビズムではなく、極めて常識的な政治判断と捉えるべき出来事でしょう。開会式のプロジェクトは小山田氏のファンではなく世界に向けられるものであり、この段階に至っては小山田氏の音楽的才能や実績よりも優先すべき事項があるからです。

オリパラ後の音楽活動まで縛り付けるのは過剰

 しかし、高度な政治的判断を要した前例がその後の小山田氏の活動をも縛ってしまうとしたら、それは過剰なキャンセルカルチャーと言わざるを得ません。世界の注目が集まるオリパラとは異なり、小山田氏個人の音楽活動は彼を知るファンとの間の経済圏で成り立っているからです。  今回の復帰について、「1年足らずで何事もなかったかの様に公の場に登場する神経を疑う」というコメントがありました。この意見は正しいように見えますが、少し違います。  オリパラのように不特定多数の他者を相手にする仕事が“公の場”だとすれば、彼を知り支援したいと願う人たちの前で演奏をすることは多分に私的な要素を含んでいます。  つまり、いじめをふざけ半分で語った過去を知っていても小山田氏の芸術に心を打たれる人たちがいる。小山田氏も彼らの期待に応えたい意欲がある。その二点で成立する経済活動であれば、違法行為でない限り誰もそれを止めることはできないのです。
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十字架を背負いながらも選択した道
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

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