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皇室の伝統を壊してはならない理由/倉山満

時代によって変化する「天皇の妻」

 では、天皇と結婚すれば即座に皇族になれたかというと、そんな単純な話ではない。天皇の妻の地位でも、高貴な身分の人だけがなれる皇后、中宮、女御があり、その下に、御息所(みやすんどころ)、更衣(こうい)もいる。もちろん、この全員が皇族の訳はない。でも、天皇の母となった女性は、「国母」としての地位を得た。  その「天皇の妻」の運用も柔軟で、時代により変化している。皇后が一人なのは変わらないが、次第に置かれなくなる。中宮は皇后の異名だったが、藤原道長の頃から二人置かれることもあった。中世以降は中宮も置かれず、後継者となる男子を生んだ女御が、かつての皇后のような地位になった。いずれにしても、皇室において、女性の地位は高かった。  鎌倉時代、第88代後嵯峨天皇の中宮だった西園寺姞子(きつし)は、持明院統と大覚寺統が激しく争った際に、幕府から裁定を委ねられたほどだ。争った当事者である第89代後深草天皇と第90代亀山天皇の実母だったからだ。

治天の君(上皇)となった「天皇の妻」も

 南北朝時代、北朝が壊滅の危機に陥った際、第93代後伏見天皇の女御(この時点で未亡人)だった西園寺寧子(ねいし)は、治天の君に担ぎ出された。治天の君とは、院政を行える上皇のことである。寧子の息子の光厳・光明の両上皇、孫の崇光上皇が同時に拉致され、次の天皇を任命する上皇がいない。寧子は「皇女ではない自分が非常識な」と断り続けたが、他に方法が無い場合はやむなしと足利幕府に拝み倒されて、治天の君となった。「律令の文字を解釈すれば、結婚したからと皇族になれるわけではない」との解釈では説明がつかない事態だろう。  時代によって変わるが、特定の条件を満たした女性には、皇族としての待遇が与えられた場合が多々ある。その一つが、院号宣下だ。この場合の「院」とは戒名などで使われる意味とは全く違い、皇族としての待遇として与えられる尊号だ。藤原道長の時代に始まる。たとえば、西園寺姞子は大宮院、寧子は広義門院。江戸時代の徳川和子は、東福門院。
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「准皇族」はいても、皇族となった男子は一人もいない
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1973年、香川県生まれ。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中から’15年まで、国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務める。現在は、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰。著書に『13歳からの「くにまもり」』など多数。ベストセラー「嘘だらけシリーズ」の最新作『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)が発売中

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