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罪を犯した人間を償わせるには、社会から追放するしかないのか?真の贖罪とは<田房永子×えいなか>

孤独になる人は、孤独になる言葉を使っている

田房:そうした本質を、書籍ではきちんと分解して書かれていました。「モラハラとは何か」ではなく、そこで何が起きてるのかということを、しっかり捉えて解説してくださっている。私の母親も、この本で解説されている「孤独になる言語化」をする人でした。 (※孤独になる言語化:『孤独になることば、人と生きることば』では、人とともに生きるための言葉の使い方を「現実の言語化」「尊重の言語化」「共生の言語化」の3つに分割して定義した。これと対をなす形で、人との繋がりが絶たれ、孤独になる言語表出パターンである「孤独になる言語化」の形式として「妄想の言語化」「軽蔑の言語化」「支配の言語化」を挙げた)  私自身も「孤独になる言語化」をしそうになる場面もあるし、読んでいていろんな自分自身を発見できる本でした。  元カレとは関係の修復をしないまま別れてしまったので、話し合う機会があればよかったと思います。逆に自分自身も「孤独になる言語化」をしそうになる場面もあるし、読んでいていろんな自分自身を発見できる本でした。 中川:GADHAが主張したいのはとにかく、「ケアの欠如はすなわち加害である」ということです。ケアをしないことは、人と生きていく上では加害になりうる。なので、一般に言われるモラハラやDVという領域を超えて、気づかない些細なところまで捉えると相当広範なことまでが加害になるし、加害とみなされてないものもあると思っているんですよ。  あとは、加害自体を問題視するのではなく、その結果として「孤独になる」ということを知らせたかったんです。 田房:なるほどですね。 中川:手法を問題視すると、人は責められたように感じると思うんです。ですが、「孤独」を問題視するときは、その人への慈しみが少なからず含まれています。「今、あなたがやっていることは、幸せになるコースから離れていくことですよ」ということ。それを本人が認めることができれば、「人と共に生きていきたい」ということにフォーカスが当たるようになる。責めれば責めるほど、むしろ加害者を加害者たらしめたトラウマが再燃して、本人が防衛反応のモードに入ってしまうと思います。

『キレる私をやめたい』発表から7年、今だに届く批判

田房:本当にそうなんですよね。  私の場合、7年前に出した漫画『キレる私をやめたい』に対して、一部の人から今だに強く拒絶反応を示されていて。この作品は、私の「やらかし」の後に、人との関係や自分の中の歪みをどう修正していったかについて描いているのですが、酷いことをやらかした人間が描いていること自体が許せないと批判する人が少なくないんです。
キレる私をやめたい

『キレる私をやめたい』は夫に対して事あるごとに激怒し、暴力を振るっていた作者が精神療法を通じその言動のルーツを探り当て治癒・矯正し、夫との関係改善に至るまでの過程を描いた作品(竹書房『キレる私をやめたい』47Pより)

『キレる私をやめたい』:夫に対して事あるごとに激怒し、暴力を振るっていた作者が精神療法を通じその言動のルーツを探り当て治癒・矯正し、夫との関係改善に至るまでの過程を描いた作品 「何かをやらかした奴を罰する」というばかりで、人が改善を重ねて変化できる存在であるという概念がないのは、そう教えられてきているからかもしれない。変わることを怖れているのか、自分は被害者なので変化しなくて良いとかたくなに思っているのかもしれない。 中川:よくわかります。僕も、なぜ元加害者の自助団体なんて立ち上げたんだと言われることがあるのですが、前提として、僕は暴力に対する既存の手法に4つの課題があると思っているんです。  一つ目が、暴力の解決が心理学をベースとしていることが多いため、社会変革をあまり目指していないこと。どうすれば加害しなくて済むようになるかを問うときには、まず所属している文化や社会を見直し、問い直す必要があると思うのですが、既存の団体でそうしたアプローチをしているところを見つけられなかったんです。  二つ目に、意識したのはスティグマを減らすこと。モラハラやDV加害者がナラティブの中で「変わらないモンスター」としてしか表象されない社会では、加害者であることを認めるのはかなり困難です。変われないなら、認めるメリットが本人にはありません。むしろ頑なに自分は加害者じゃない、モンスターじゃない、と思ってしまいます。だから「加害者は変われる」ことをメッセージとして発信していきたいと思いました。  三つ目に、「加害をやめる=ケアをする」ことであって、加害をやめること「加害を止めること」はできないと思いました。ケアができるようにならないといけないんです。。それが、既存の専門家集団では難しいと思ったんです。なぜなら心理士や精神科医はプロだから。プロとクライアントという関係の場合、ケアをする責任はプロ側が持っている。お互いにある程度、水平で対等な関係で「言葉を選びあって関わる責任があるような」関係性がないと、位置づけがないと、ケアの練習はできないと思って自助グループを作りました。  そして、四つ目が最も重要なのですが、加害者の償いについて追求することです。例えばアンガーマネジメントを学んで人を傷つけなくなったとしても、それが謝罪や償いになるとは限りませんよね。これまで傷つけてしまった人がいるから、、加害してしまった人はそれでOKにはならない。人を傷つけてしまった人は、どう生きていったらいいのか。そもそも生き続けて良いのか、ということを考える必要があったからです。
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社会から追放することが、はたして加害者の贖罪になるのか
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DV・モラハラなど、人を傷つけておきながら自分は悪くないと考える「悪意のない加害者」の変容を目指すコミュニティ「GADHA」代表。自身もDV・モラハラ加害を行い、妻と離婚の危機を迎えた経験を持つ。加害者としての自覚を持ってカウンセリングを受け、自身もさまざまな関連知識を学習し、妻との気遣いあえる関係を再構築した。現在はそこで得られた知識を加害者変容理論としてまとめ、多くの加害者に届け、被害者が減ることを目指し活動中。大切な人を大切にする方法は学べる、人は変われると信じています。賛同下さる方は、ぜひGADHAの当事者会やプログラムにご参加ください。ツイッター:えいなか

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モラハラ、パワハラ、DV
人間関係は“ことば”で決まる


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人間関係を改善する鍵は、言語化にあった

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