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“池袋の象徴”で「24時間営業」「ロックフェス」を行う案が…どちらも幻になってしまった理由

新宿・渋谷と並ぶ副都心の一つ、「池袋」。近年では再開発も進み、「住みたい街ランキング」の上位に位置するなど大きな変貌を遂げている。しかし、そんな池袋について書かれたものは少ない。この連載では、そんな池袋を多角的な視点から紐解いていこう。 池袋駅を歩いていると、ある看板が目に入ってきた。 「太陽城」 何を示しているかわかるだろうか。答えは、「サンシャインシティ」である。サンシャイン=太陽、というわけだ。サンシャインシティの中国語表記を「太陽城」という。
サンシャインシティ

©yu_photo

今なお観光客で賑わう「サンシャイン60」

サンシャインシティは1978年に開業した、池袋を代表する商業施設。60階建てのビルである「サンシャイン60」を中心として、水族館やプラネタリウム、劇場などが集まり、開業から40年以上経った現在でも、多くの観光客で賑わっている。当時、60階建てのビルは東洋一高いビルとして宣伝され、東京における高層建築の先駆け的な存在の一つにもなった。 「サンシャインシティ」という名前は、一般公募で決定したという。公募は7万通を超えたが、その中からこの名前が選ばれたのは「呼びやすい」「明るくて新鮮」「シンボルにふさわしい」などの理由があったかららしい。 実は、この名前が決定するよりもずっと前、まだサンシャインの計画が立ち始めた頃に、まさにこの「太陽城」という名前にふさわしい開発をこの地で行うべきだと主張した人物がいた。 ソニーの創業者の一人、盛田昭夫である。

ソニーの創業者が提案した「24時間営業」

盛田は「マーケットを拡げるには夜の時間を利用できる不夜城を作ったらいい」と言った。明かりの消えない「不夜城」を作ることを提案したのである。盛田は、サンシャインシティの構想を決めるメンバーに加わっており、その席上でこのような趣旨の発言をしたらしい。 盛田がこのように述べるのには事情があったと思う。サンシャインシティが経っていた場所には、通称「巣鴨プリズン」と呼ばれた東京拘置所があったからだ。ここは太平洋戦争での戦争犯罪を問われた戦犯たちが収容され、この地でA級戦犯ら7名の絞首刑が行われていた。 その暗いイメージを払拭するためには、24時間ずっと明るくその場所が照らされることが必要なのではないか。まさに「太陽」のようなイメージをその場所に持たせることが必要と考えて盛田はこのような提案をしたのだと思う。 まだ「24時間営業」なんて言葉もない時代。この考えは目新しいものだったかもしれないが、同じ席上でこの盛田の「不夜城」のアイデアに異議を唱えた人物がいる。
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「24時間営業」は礼を失する行為?
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ライター・作家。チェーンストアやテーマパークをテーマにした原稿を数多く執筆。一見平板に見える現代の都市空間について、独自の切り口で語る。「東洋経済オンライン」などで執筆中、文芸誌などにも多く寄稿をおこなう。著書に『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』(集英社)『ブックオフから考える』(青弓社)
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