更新日:2024年04月23日 08:30
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灘中→灘高→東大理Ⅲ…超エリートコースを歩んだ男が“医師とピアニストの二刀流”を続ける理由

クラシックは堅苦しいイメージもあるが…

 多くの人たちが浅野氏の人柄と演奏に魅了され、会場に足を向ける。なかでも浅野氏がいつも気に掛けている相手がいる。 「私が初期研修で受け持った患者さんのなかに、脳死状態のお子さんがいました。元気だったころにはバイオリンを演奏していたということもあり、お母様とも音楽を通じてさまざまなお話をさせていただきました。残念ながら闘病の末に亡くなってしまったのですが、その『ごきょうだい』がいつも演奏会に来てくれます。その子は健常者に比べて困難なことも多く、本来は電車を乗り継いで来るだけでも相当なストレスになるだろうに、演奏を楽しみにしてくれていたと考えると、お客さんの思いを改めて知るようで身が引き締まります」  医師でピアニストという高尚さの掛け算のような神壇から、浅野氏が聴衆の関心に徹底的に寄り添えるのはなぜなのか。 「クラシックは堅苦しいイメージもあるかもしれませんが、本来音楽は感情を表現するものであり、コミュニケーションを取るのに向いています。音楽は一部の人のためのものではなく、誰に対しても開かれているものなんです。たとえば重い障害のある子どもたちのための支援学校で演奏をするときも、ディズニーメドレーなどを弾けばたちまち楽しんでくれて一気に距離が縮まります。言葉が必要ないこともしばしばあるわけです。  また、こども食堂などで子どもたちから学ぶことも非常にたくさんあります。たとえば、意外と今の子たちは昔の曲も知っているのは驚きました。TikTokなどで頻繁にその時代の名曲が流れてくるんだと言うんです。彼らが来てくれたとき、会場には受付の方や案内の方、音響担当と、さまざまな人の協力があってひとつのリサイタルが成り立っていることを学んでくれるかもしれません。外に出て人に会うことは、存外いろいろなことを学び取るチャンスになると私は考えています」  浅野氏の奏でる旋律は不思議だ。ときに聴いているこちら側が、「どんなメロディが好きですか」「楽しめていますか」と問われているように感じる。浅野氏の意識は、常に自己ではなく他者に向き続けている。  人が自らの才能を自覚したとき進化を止めるのだとすれば、図抜けた才覚を持ちながらその偉大さに鈍感な浅野氏が研鑽をやめない理由にも合点がいく。曲のクライマックス、鍵盤を押し込むために沈む浅野氏の前傾姿勢が、丁寧に患者の主訴に傾聴する姿に重なった。 <TEXT/黒島暁生>
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki
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