幼少期から芸能界で過ごしてきた「子役」たち。しかし、大人になってからも成功できるのはほんのひと握りである。
西真央さん(32歳)
芸能界の常識や価値観が、一般社会と異なることは言うまでもない。子役として過ごした後、現実との大きなギャップに悩んでしまうこともあるだろう。元子役はその後、一体どんな人生を歩んでいるのか?
子役からギャルモデルに転身し、一般企業に勤める会社員を経て“起業”した西真央さん。決して順風満帆ではなかったが、現在はビジネスの世界で邁進中。今回は、その独特な道のりを紹介する。(記事は全2回の1回目)
「勝った者が正義」まさにサバイバルの子役時代
子役をやっていた幼少期の西さん。父親との1枚(提供写真)
幼稚園の頃に芸能界へ入った西さん。家電量販店のパンフレット、ミュージカル、テレビドラマのエキストラやテレビCMにも出演していたという。きっかけは何だったのだろうか。
「私が『テレビに出たい』と親に言ったことです。親は『テレビに出るなら芸能人にならなきゃね』と、習い事として劇団に入れてもらいました」
彼女は以前からピアノなど他の習い事もしていたらしい。しかし劇団は、“普通の習い事”とは違うだろう。芸能人を目指す方法のひとつと言えるが、レッスンはつらくなかったのだろうか。
「日本舞踊、バレエ、発声練習、ダンス……たくさんの新しいことに挑戦するのは大変でしたが、つらくはなかったです。挑戦していくことで達成感を得て、価値観が変わっていくことが楽しかったですね」
とはいえ、楽しいことばかりではない。芸能界で活躍するべく、誰もが生き残りをかけて必死になっている。西さんは「サバイバルの厳しさも痛感した」そうだ。
「劇団では『私の方がかわいい』『私の方がスタイルがいい』という戦いが行われていました。派閥とかもありましたね。私は派閥には加わらず孤立していましたが……。
サバイバルの厳しさを痛感したのは、オーディションの時でしたね。たとえば、『あっぱれさんま大先生』(フジテレビ系列)という子どもがひな壇でしゃべる番組で、私を含む数名がオーディションに出た時のことです。そこでは、みんなかわいくてトークが面白い子ばかりが集まっていました。私は予選落ちで、負けて悔しい思いをしました。
他にも主役に選ばれるのは1人だけというミュージカルのオーディションで落ちたりもして、“勝った者が正義”という価値観が培われていきました。ここで勝ち残っていくのは難しいだろうな……と思い始めた矢先に、兄が交通事故で亡くなったんです。私が小学1年生の頃でした」
ギャル時代のプリクラ(提供写真)
西さんは気持ちの整理がつかず、子役もやめることになったという。
「兄の死がショックで、習い事にはすべて行けなくなってしまいました。半年くらい休んでから、気持ちを切り替えるために劇団もやめました。中学ではバスケットボール部に入り、部活に打ち込んでいましたね。高校では、“ギャル”としての自分に目覚めたんです。
私は子役時代に『もっと身長が必要だね』と言われ続けていたのですが、ギャル雑誌を読んでいたら、背が小さい女の子がモデルをしていて、衝撃を受けたんです。彼女は肌が黒い、いわゆる“黒ギャル”で、私も憧れて肌を真っ黒に焼き始めました」
海の家でアルバイトしていた黒ギャル時代(提供写真)
髪も金色に染めたらしいが、親からは注意されなかったのだろうか。
「特に何も言われなかったですね。『自分の好きなようにしてね』と、私のことを信じてくれていました。『将来、シミで後悔するよ』とだけ言われていて、今まさに、シミの点では後悔しています(笑)。
当時は日焼けサロンに通うとお金がかかるので、兵庫県の須磨にある海の家で働きながら、肌を焼いていました。他にも好きなギャルモデルのアパレルブランドを買ったり、撮影会に行ったりして、ギャルとしての活動に打ち込んでいました」
西さんは20代前半まで関西のギャルモデル事務所に所属しながら休日などを利用し、雑誌やファッションショーに出演していたという。
一方で勉強も怠らず、京都工芸繊維大学に進学。なぜその進路を選んだのだろうか。
「父親が建築業をやっていた影響で、私も小さい頃からデザインや建築などのモノづくりが好きでした。もちろんギャルも続けていて、20歳まで肌はしっかり黒かったですよ。
勉強をしてギャルもして、キャンパスライフを謳歌していたのですが……大学3回生のある日、父親が借金を抱えることになってしまったんです。知人が自己破産してしまい、父親が連帯保証人になっていたことから肩代わりしないといけなくなってしまって……」