エリック・ビショフ=ビンス・マクマホンになれなかった男――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第319回(1999年編)
WWEと“月曜TVウォーズ”を演じてきたWCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)のオフィスからエリック・ビショフ副社長がこつ然と姿を消した。
WCWの親会社であるターナー・エンターテインメント社から辞令が下りたのは1999年9月9日午後。翌10日夜、メアリーランド州ボルティモアでハウスショー興行に出場していた選手グループ、ツアー・クルー、団体関係者のもとに「ビショフ解雇」の情報が届いた。
ビショフの後任には、これまでストラテジック・プランニング部部長(戦略企画部=副社長待遇)を務めていたビル・ブッシュがざん定的に就任。
テレビ番組“マンデー・ナイトロ”の制作チームについては、現場総指揮のクレッグ・レザースが“プロデューサー”から“エグゼクティブ・プロデューサー”に昇格した。
新人事での業務はそれから2日後の9月12日、ノースカロライナ州ウィンストン・セーラムで開催されたPPV“フォール・ブロール”からスタートした。
ビショフは、ビンス・マクマホンになろうとして、なれなかった男だった。これだけ大きなカンパニーのエグゼクティブ・バイス・プレジデント(執行副社長)のポストに座ってしまったのは、どちらかといえばタイミングとなりゆきと偶然のかさなり合いみたいなものだった。
WCWは“テレビ王”テッド・ターナーのターナー・グループの系列会社のひとつで、法人登記上はターナーとハービー・シェラー顧問弁護士がそれぞれ会長、社長にその名をつらねていた。
もちろん、ターナー会長もシェラー社長もプロレスの試合会場にはまず現れない。こと“プロレス事業部”に関してだけいえば、いちばんエラい人はいつも現場にいるビショフ副社長だった。
オレイ・アンダーソン、ジム・ハード、キップ・フライ、ビル・ワットらの短命政権をフォローする形で、ビショフは1993年春、エグゼクティブ副社長に任命された。ターナー本社は、元プロレスラーではないサムバディを探していた。
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