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女川ルポ:子どもたちに笑顔を! 『リアスの戦士★イーガー』プロデューサーの軌跡

―[被災地ルポ]―
週刊SPA!本誌連載「週刊チキーーダ!」のふたり――エコノミストの飯田泰之と評論家の荻上チキが、11月上旬の三陸取材で出会ったひとりが女川のローカルヒーロー「リアスの戦士★イーガー」のプロデューサー・阿部喜英さんだ。
リアスの戦士★イーガー

決め言葉は「いーがーおめだず、よーっぐ聞げ!海を!島を!女川を守る!リアスの戦士★イーガーだ!」

「リアスの戦士★イーガー」が正式デビューしたのは2010年7月。ワル一族特攻隊長クララーゲ率いるワルワル団と闘い、女川の平和を守るヒーローとして誕生。町のイベントに登場し、子どもたちからは圧倒的な人気を誇っていた。 そして、震災が起こり――。 子どもたちの笑顔を取り戻したのもイーガーだった。 「震災後、最初にイーガーが活動を再開したのは4月14日です。町の小学校にある俳優さんが慰問に来てくださることになり、『じゃあ、イーガーも行こうか』という話になったんです。ただ、こんな時期にイーガーが出て行っても『ふざけてる』と思われるんじゃないか? 『不謹慎だ』って言われるんじゃないか? そんな思いはぬぐえませんでした」(阿部さん)
阿部喜英さん

「リアスの戦士★イーガー」のプロデューサー・阿部喜英さん

しかし、小学校の教室に入った瞬間、聞こえたのは子どもたちの大歓声だった。 『イーガーだ!!!!』『イーガーが来た!!!』 「こんなに子どもたちが喜んでくれるなら、やらなきゃいけないねって」(阿部さん) 以降、避難所等でイベントが開催されると聞けば、イーガーは駆けつけた。音響等の機材はすべて流されてしまったので、以前のようなショーを見せることはできない。しかし、イーガーと握手をしたり写真を撮ったりするだけでも、子どもたちに笑顔が溢れた。 “キャラクターの力”を実感させられる話だが、さらに、阿部さんからは“本職”にかかわる部分でさらに興味深い話を伺えた。 ◆自分たちに必要な情報を求めて
仮設の新聞販売所

仮設の新聞販売所の壁に貼られた子どもたちからのメッセージ

阿部さんの本業は河北新報の女川販売所所長である。河北新報は震災直後でも新聞を発行し続けた。が、新聞が発行されていても、沿岸部の被災地に届かないという状態だった。そんなとき、町の人が求めていた情報――新聞を運んだのが阿部さんだったのだ。 「実は震災直後から女川から仙台まで道路は繋がっていたんです。ただ、ナビが示すような道は全部ダメだったので、向こうからすると、どの道を通ったら行けるのかがわからなかったんでしょうね。そこで、震災から3日目の3月14日でしょうか。仙台に住む私の妹夫婦が安否確認に女川に来てくれた帰りの車に乗って、仙台にある河北新報の印刷センターに直接行って、新聞の手配をしたんです。そして、15日の朝刊便の配達のトラックに同乗して女川に戻り、新聞の配達を再開したんです」 阿部さんがここまで新聞の配達にこだわったのは、「自分たちに必要な情報があまりにもなかった」から。ラジオという情報源があったが、すでに福島の原発事故中心の報道となっていた。女川や隣の石巻の被害がどうなのか? 親せき、友だちがいた場所は無事なのか? 救助や支援はどうなっているのか? 果たして、自分らは生きられるのか? 人々が渇望していたのは、自分たちにかかわる情報だったのだ。 さらに阿部さんはその後、『うみねこタイムズ』というフリーペーパーをボランティアをしていた幼なじみに編集長をお願いし、月1~2回のペースで発行。新聞に折り込んだり、避難所に置いて、町の人に必要な、しかし、埋もれてしまいがちな情報を発信し始めたのだ。
うみねこタイムス

阿部さんが幼なじみとともに発行したミニコミ『うみねこタイムス』。第2号では在宅避難地区の物資配給情報を網羅

「女川でもデマが出るようになって、このままじゃいけないと思ったんです。そのデマは津波が起きてすぐの都市伝説的なデマではなくて、例えば、『配給物資が打ち切りになる!』といった、根拠はあるデマなんです。その真相はというと、地区の判断で配給を中止したところがあった、というもので、決して打ち切りではなかったのですが、「急に連絡もなしにもらえなくなった」と感じる人もいたわけです。それが『女川町では配給が終わった。町は何をやってるんだ!』といったデマとなって流れてしまった。情報を伝達する手段がなかったのが原因なので、町からの出される情報の隙間を縫うような情報を『うみねこタイムズ』でフォローしていったんです」 新聞の販売所所長という“情報”をつなぐ仕事をしていた阿部さんだったからこそ、その必要性を痛感し、同時に発信するノウハウもあったのだろう。
荻上チキ

震災直後から復興過程へ、移り変わっていったデマの内容に荻上も耳を傾ける

しかし、彼だけでなく、聞けば、町の道路が早々に仮復旧できたのは、町の若い衆が交通誘導をしつつ、地元の建設会社の人たちが重機を使ってガレキを除けていったからだというし、また、水産加工会社が自主的に無事だったトラックを運転し、水が出る地域から避難所へと水を運んだりもしていたという。 自分ができることを……を極限の状況下で行っていた人たちの物語。これらの話をひとつひとつ、来るかもしれない「その時」のための備えのため、糧にしていかなくては、と心から思う。
【11年11月4日 女川町の様子】⇒http://youtu.be/w-S8RnQx9v0 取材・文/鈴木靖子 写真/土方剛史
河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙

2011年度の新聞協会賞受賞を受賞した『河北新報社のいちばん長い日   震災下の地元紙』(文藝春秋)。第4章に阿部さんがいかにして、配達ルートを確保ていったのか詳述されている

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