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ビンス・シニアとサンマルチノの“腐れ縁”――フミ斎藤のプロレス講座別冊 WWEヒストリー第13回

「フミ斎藤のプロレス講座別冊」月~金更新 WWEヒストリー第13回


 ビンス・マクマホン・シニアの計画どおり、ブルーノ・サンマルチノは“ワンポイント・リリーフ”のスタン・スタージャックを下してWWWFヘビー級王座に返り咲いた(1973年12月10日=ニューヨーク、マディソン・スクウェア・ガーデン)。

サンマルチノはビンス・シニアに「ノー」といえるスーパースターだった。(写真は米専門誌『レスリング・イラストレーテッド』の表紙から)

サンマルチノはビンス・シニアに「ノー」といえるスーパースターだった。(写真は米専門誌『レスリング・イラストレーテッド』の表紙から)

 フライング・ニードロップを狙ってスタージャックがトップロープに上がると、サンマルチノが下からのデッドリー・ドライブでスタージャックの巨体をキャンバスにたたきつけた。きわめてシンプルなボディースラムだった。12分35秒、サンマルチノがスタージャックから3カウントのピンフォールを奪った。

 スタージャックがトップロープからのフライング・ニードロップを狙った場面は、2年11カ月まえにサンマルチノがイワン・コロフにまさかの完敗を喫したシーンの再現になっていた。リング上と観客席のあいだで“記憶のキャッチボール”がおこなわれた。

 38歳のサンマルチノは、全盛期には275ポンド(約125キロ)あった体重を235ポンド(約106キロ)までスリムダウンしてガーデンのリングに帰ってきた。ニューヨークの観客にとっては、そこに本物のサンマルチノが立っているだけでもう十分だった。

 ビンス・シニアがサンマルチノに提示した契約条件はこんな感じだった。スケジュールは月間10試合から最大15試合まで。ボストン、ボルティモア、フィラデルフィアといった都市部のビッグショーのみの限定出場で、ファイトマネーはそれぞれの興行収益の6パーセントずつ。ガーデン定期戦は興行収益の5パーセントを保証。この時代のプロモーターとプロレスラーの契約には、キャラクター・グッズの版権とその売り上げロイヤリティーというコンセプトはまだ存在しなかった。

 1974年のガーデン定期戦は、サンマルチノ対ドン・レオ・ジョナサンのタイトルマッチで幕を開けた(1974年1月14日)。この日、ダブル・フィーチャーとしてラインナップされたペドロ・モラレス対スタージャックのシングルマッチでは、モラレスがスタージャックからフォール勝ちをスコアし、前年12月のフィラデルフィアでのタイトルマッチの雪辱を果たした。

 サンマルチノがレギュラー出場するガーデン定期戦はちょうど新作映画のプレミア上映で、ボストンやワシントンDCでのビッグショーはロードショー公開。中都市クラスの“2番館”ではサンマルチノの試合はライブでは観られない。ニューヨーク・ニューヨークとそれ以外のエリアのこの微妙なギャップがサンマルチノの商品価値をさらにアップグレードさせた。

 この年の5月、ビンス・シニアは新日本プロレスとの業務提携に向けた会談のため初来日し、“復活”『第1回ワールド・リーグ戦』決勝戦(1974年5月8日=東京体育館)のウィットネスをつとめた。

 それまでWWWFと友好関係にあった全日本プロレスは翌6月、モラレス、ゴリラ・モンスーン、スパイロス・アリオンらガーデン定期戦の主力メンバーを招へいして『マディソン・スクウェア・ガーデン・シリーズ』を開催した。

 すでに前年から同シリーズの企画をすすめていたジャイアント馬場にとって、ビンス・シニアと新日本プロレス、つまりアントニオ猪木との急接近は“寝耳の水”のできごとだった。

 馬場はシリーズ終了後、急きょニューヨークへ飛び、6月24日のガーデン定期戦に出場(モンスーンにフォール勝ち)。ビンス・シニアと緊急会談をおこなった。結果的に、WWWFは新日本プロレスとの業務提携を選択した。

 WWWFと新日本の新しいパートナーシップは、サンマルチノ対猪木の“夢の対決”の実現を示唆していたが、サンマルチノは新人時代からの親友・馬場との友情を理由にこのオファーを拒絶した。サンマルチノは、ボスのビンス・シニアに“NO”といえるスーパースターだった。(つづく)

斎藤文彦

斎藤文彦

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

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